第十章 ――三日前――
《NOAH》到着予測、
三日前。
ヘスペリア-3では、
もうその話題しか出なくなっていた。
食堂。
保守通路。
農業区画。
港湾ブロック。
誰もが、
“帰ってくる船”の話をしている。
「三キロ船とか実感ねえな」
「人口どれくらいだっけ」
「8000人規模らしいぞ」
「水足りんのか?」
「だから最近、
氷輸送増えてんだろ」
窓の向こうでは、
氷輸送船が接岸していた。
《グゥゥゥゥゥン……》
低い回生振動。
巨大氷塊。
接岸クランプ。
ヘスペリア-3の日常。
でも。
その日常全体が、
少しだけ“迎える側”へ変わっていた。
中央非回転軸区画では、
NOAH受け入れ用ドッキングベイの最終工事が続いている。
巨大支持フレーム。
長大な係留アーム。
通常艦艇用ドックとは、
比較にならない規模だった。
作業員たちは、
半ば呆れながら作業を続けている。
「ほんとに街じゃねえか」
「接岸っていうか移住だろ」
「文明接続工事だなもう」
笑い声。
でも。
嫌そうな人間は一人もいなかった。
ハル主任は、
巨大骨格フレームを見上げながら言う。
「dock側interface、
最後まで合わせとけよ」
作業員が振り向く。
「まだ旧規格使うんすか?」
「使う」
即答だった。
「二百年漂流してても、
最後に繋がるのはそこだ」
端末には、
旧木星圏共通接続規格図面が表示されている。
古い。
今では、
ほとんど使われていない規格。
でも。
NOAHだけは違った。
二百年間。
継ぎ足し。
改修し。
共食い整備し。
構造が変わっても。
その奥底にはまだ、
“帰るための接続口”が残っている。
ハル主任は、
ぶっきらぼうに続ける。
「宇宙じゃ、
最後は規格が帰してくれる」
その言葉に。
周囲の作業員たちが、
少し静かになった。
その頃。
《NOAH》では、
最終減速段階が始まっていた。
船全体へ、
低い振動が響いている。
《ゴゥゥゥゥゥゥ……》
重い機械音。
推進系振動。
熱交換機駆動音。
通信越しでも、
船体全体が震えているのが分かった。
ミオの髪が、
微かに揺れている。
もう、
昔の小さな少女ではない。
工具を持ち。
整備員たちへ指示を出し。
船を直す側の人間になっていた。
そして。
ツインテールだけは、
昔のさぎりと同じだった。
『最近、
皆寝不足です』
「そりゃそうでしょ」
『減速系、
止められないので』
後ろを、
整備員たちが走っていく。
『放熱板角度維持!』
『推進剤流量確認!』
『第四冷却系圧力低下!』
NOAH全体が、
巨大な減速機械になっていた。
二百年間、
止まれなかった船。
今。
その全てが、
“止まるため”に動いている。
観測窓の向こう。
木星は、
もう巨大だった。
褐色の雲帯。
白い渦。
大赤斑。
そして。
その手前を横切る、
白い氷の星。
エウロパ。
さらに。
細い光の輪。
ヘスペリア-3。
NOAHの子供たちが、
窓へ張り付いていた。
『回ってる!!』
『光ってる!!』
『あれ街!?』
『ちっちゃ!!』
歓声。
泣き声。
笑い声。
二百年間、
誰も見たことがなかった景色。
ミオは、
しばらく窓の向こうを見つめていた。
それから、
小さく呟く。
『……ほんとに居た』
その言葉に。
さぎりは、
胸の奥が少し痛くなる。
ずっと話していた。
毎日通信していた。
でも。
NOAHの人々にとって、
ヘスペリア-3は、
ずっと“映像の中の場所”だった。
でも今。
窓の向こうに、
本当にある。
帰る場所が。
その時だった。
通信画面の向こうで、
ミオが少し笑う。
『さぎりさん』
「ん?」
『ちょっと』
『手、
振ってもらっていいですか?』
「え?」
ミオが、
観測窓の向こうを指差す。
『見えないの分かってるんですけど』
『なんとなく』
さぎりは、
少し笑った。
それから。
保存庫の窓際へ歩いていく。
木星。
エウロパ。
ヘスペリア-3。
そして。
遥か彼方の《NOAH》。
見えるはずもない距離。
でも。
さぎりは、
ゆっくり手を振った。
通信画面の向こうで。
ミオも、
静かに手を振っている。
宇宙の両側で。
二人は、
見えない距離へ向かって手を振っていた。
長い漂流は。
もうすぐ終わる。




