第56章ーー紫区画のの大切さーー
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「えっ……じゃあ、このトラムはどうやって入ってくるんですか?」
区画長は微笑んだ。
「このトラムも、そのまま通り抜けることはできません。」
「区画の出入口には気密トンネルが設けられています。」
「紫区画側の隔壁は閉鎖されています。」
「まずトラムがその中へ入り、後の通常農業区画の隔壁を閉鎖します。」
「そこでトンネル全体の空気を入れ替え除菌と検査を行います。」
「この時、車両の乗員部分の窓やドアも全て解放し除菌検疫を行います。」
「すべての工程が終了して初めて、紫区画側の隔壁が開くんです。」
ミオが感心したようにうなずく。
「列車ごとエアロックを通るんですね。」
「はい。」
「居住リング、工業リングの非常時の対応に近いものが常に行われています。」
区画長はうなずいた。
「この区画は発酵施設や食品加工施設が中心です。」
「衛生管理が最優先ですから、人だけではなく、車両や荷物もすべて同じ手順を経て出入りします。」
ユノは静かに記録を取りながら言った。
「区画全体を一つの無菌管理区域として運用しているのですね。」
「その通りです。」
区画長は満足そうに微笑んだ。
「さて、チズル主任。参りましょうか。」
区画長が穏やかに声をかける。
チズルは少し照れくさそうに笑った。
「主任って呼ばれるのは、なんだかこそばゆいね。」
「まあ、いいか。」
「案内してもらえるかい?」
「もちろんです。」
区画長は笑顔でうなずき、ゆっくりと歩き始めた。
「この紫区画では、主に保存性の高い食品を製造しています。」
「一番多く作られているのは、小麦から作る保存パンです。」
「ヘスペリア3では主食として最も多く消費されています。」
歩きながら、透明アルミニウム越しに並ぶ工場を指し示す。
「あちらでは、収穫された野菜の一部を長期保存できる状態へ加工しています。」
「乾燥や発酵など、それぞれの野菜に適した方法で保存性を高めているんです。」
さらに奥の建物を示した。
「そして、この区画で最も重要なのが、塩精製工場と大豆加工施設です。」
「塩は絶対に必要なものですし。」
「大豆は、ヘスペリア3の貴重なたんぱく源ですから。」
「ここでは用途に応じて、さまざまな食品へ加工されています。」
「まずは豆乳を作ります。豆乳には食品用に循環精製したカルシウムを添加し、住民の骨の健康を維持できるよう栄養強化しています。その後、凝固剤を加えて豆腐を製造します。」
「豆乳は、そのまま親しまれている飲料としても利用されています。」
「さらに大豆は、味噌や醤油の原料にもなります。」
「塩と麹を使って発酵・熟成させることで生まれるうま味は、保存食中心の食生活を支える大切な調味料です。」
少し歩いてから区画長は振り返る。
「さらに、この区画では酢などの酸味料も製造しています。」
「どれも食事には欠かせないものばかりです。」
「決して派手な仕事ではありません。」
「ですが、この区画が止まれば、ヘスペリア3の食文化そのものが止まってしまいます。」
区画長は静かにそう締めくくった。
区画長は歩きながら、さらに説明を続けた。
「それから、サトウキビも栽培しています。」
「ここでは砂糖を精製するだけではありません。」
「発酵技術を利用して、うま味の調味料の原料も製造しています。」
「保存食が中心の食生活では、こうした調味料が料理のおいしさを大きく左右するんです。」
さらに別の建物を指さす。
「あちらには果実加工施設があります。」
「農業リングで収穫された果物の一部が運び込まれ、ジャムや乾燥果実に加工されます。」
「そして、ごく一部だけですが、果実酒も造られています。」
ミオが驚いたように目を丸くした。
「お酒もあるんですか?」
「ええ。」
区画長は笑顔でうなずく。
「それから、大麦の一部には酵母という微生物を加えて発酵させ、ビールも造っています。」
「もちろん、生産量はごくわずかです。」
「これらはヘスペリア3では極めて貴重な嗜好品ですが、甘い果実酒は調理場へ送られ調味料として使用されます。」
「飲料用は祝い事や記念日など、特別な日に少しだけ楽しまれる程度ですね。」
チズルも笑いながら付け加えた。
「普段の食堂じゃ、まずお目にかかれないよ。」
「そういうのは、本当に特別な日の楽しみなんだ。」
ミオは静かに工場を見つめる。
「ここは食べ物を作る場所というより……。」
「ヘスペリア3の食文化そのものを支えている場所なんですね。」
区画長はうれしそうにうなずいた。
「その言葉が、一番しっくりきますね。」
ミオが少し驚いたように言った。
「私……お酒って飲んだことないんです。」
「もう二十歳になるのに。」
さぎりは少し考えてから笑う。
「私は二十歳の誕生日に少しだけ飲んだかな。」
「あとは……おばちゃんの結婚式。」
「その時くらいしか飲んだことないな。」
チズルは思わず吹き出した。
「そうだったねぇ。」
「私はだいたい一年に一回くらい、この紫区画へ来るんだ。」
「その時だけ、一杯飲ませてもらってる。」
区画長も笑顔でうなずく。
「毎年、楽しみにされていますからね。」
チズルは三人を振り返った。
「今日も、そのつもりなんだけど。」
「付き合うかい?」
ミオは少しうれしそうに微笑んだ。
「はい。」
さぎりも笑顔でうなずく。
「ぜひ。」
ユノは静かに答える。
「私は飲酒できませんが、皆さんの反応を記録し、リンへフィードバックいたします。」
その言葉に、一同は思わず笑った。
区画長は歩きながら最後に付け加えた。
「とにかく、この紫区画は菌や酵母などの微生物を数多く扱う場所です。」
「ですから、外から微生物が持ち込まれることにも細心の注意を払っています。」
「逆に、ここで培養している微生物が外へ出てしまうことも避けなければなりません。」
「そのため、この区画は常に他の区画と厳重に隔離されています。」
一同は改めて、ここがヘスペリア3の食文化を支える重要な場所であることを実感した。
区画長は微笑みながら前方を示す。
「それでは参りましょう。」
「農業リングの農業担当主任がお待ちしております。」
チズルは軽くうなずいた。
「よろしく頼むよ。」
一行は区画長の後に続き、紫区画のさらに奥へと歩き始めた。
建物へ入ると、一人の男性が笑顔で迎えてくれた。
「やあ、チズルさん。ご無沙汰だね。」
待っていたのは、農業リングの農業担当主任だった。
チズルも笑顔で手を上げる。
「おう。あんたも元気そうだね。」
「あはは、おかげさまで。」
主任は笑って答える。
「どうだい。ハルとはうまくやってるか?」
「そこは問題ないよ。」
「それならよかった。」
主任は三人へ視線を向けた。
「今日は、お嬢さんが二人と……。」
「その子がユノちゃんかな。」
ミオ、さぎり、そしてユノは慌てて頭を下げる。
「はじめまして。」
「よろしくお願いします。」
主任も優しく頭を下げ返した。
「こちらこそ、よろしく。」
「今日はゆっくり見ていってね。」
少し考えてから、チズルは苦笑いを浮かべる。
「どうしようかな。」
「ユノちゃんには、ぜひ一緒に来てもらいたい。」
「いろいろ記録してもらえれば、アーカイブの勉強にもなるだろうしね。」
ユノは小さくうなずく。
「はい。できる限り記録いたします。」
チズルは今度はミオとさぎりを見る。
「お前達二人は……。」
「これから見るのはデータばかりだから正直、ちんぷんかんぷんで退屈かもしれない。」
「もしよかったら、この辺を自由に見て回っていても構わないよ。」
「見学できる場所なら、どこへ行っても大丈夫だからね。」
「でしたら、私がご案内しますよ。」
先ほどから案内をしてくれていた紫区画の区画長だった。
「見学できる範囲にはなりますが、紫区画をご案内します。」
ミオとさぎりは顔を見合わせる。
「本当ですか?」
「ありがとうございます。」
区画長はにこやかにうなずいた。
「それでは、こちらへどうぞ。」
チズルは二人に笑いかける。
「せっかく来たんだ。」
「ゆっくり見ておいで。」
「はい。」
二人は元気よく返事をし、区画長の後について歩き始めた。
一方、チズルと農業担当主任、そしてユノは、施設の奥にある管理区画へ向かっていった。




