第53章ーーテーブルの輪ーー
リンはコーヒーを口に運び、テーブルを囲む皆の表情を静かに見つめていた。
「コーヒー……。」
「苦味、酸味、香り。」
「数値としては、それだけの飲み物です。」
少し考え込むように首をかしげる。
「ですが、皆様は満足そうな表情をされています。」
「食後という時間そのものにも、価値があるようです。」
ユノは小さく笑った。
「そういうことだと思うよ。」
リンは静かにうなずいた。
「新しい学習項目として登録します。」
その時、一人の調理長が手を挙げた。
「チズル主任。」
「提案があります。」
食堂が静かになる。
「今日まで、私は調理長でありながら、大事なことを忘れていました。」
「料理を効率良く作ることばかり考えていましたが、みんなで食べる食事が、これほどおいしいものだとを忘れていました。」
周囲の調理長たちもうなずく。
「今日の料理は、どれも普段と同じレシピです。」
「でも、不思議なくらいうまかった。」
「第一食堂には約四十人の調理員がいます。」
「提供前に交代で、希望者だけでもみんなで食事をする時間を作ってみませんか。」
一瞬、静寂が流れる。
さぎりとミオは顔を見合わせた。
ユノとリンも顔を見合わせる。
さぎりが驚いて声を上げた。
「……えぇぇぇ!?」
「チズルさんって、主任だったの!?」
ミオが苦笑する。
「そうらしいですね。」
「ずっと食堂のおばちゃんだと思ってました。」
その声は周囲にも聞こえていた。
チズルは苦笑しながら肩をすくめる。
「これでもヘスペリア3の全住民二万人――今はNOAHから来た八千人も合わせて、二万八千人の胃袋を預かる責任者なんだけどねぇ。」
さぎりとミオは目を丸くした。
ユノとリンも顔を見合わせ、そのまま固まる。
ハルが思わずユノを見る。
「ユノ。お前も知らなかったのか?」
「は、はい。」
ユノは少し照れくさそうに笑った。
「私は地球文化アーカイブですので、管制などの主運営部門とは完全に独立しています。」
「ですから、データ検索等もできませんし、ましてや個人の役職までは把握できません。」
食堂中がどっと笑いに包まれた。
「第一食堂にリンを作ったのも解ったか?」
「納得です。」
チズルも笑いながら皆を見回す。
「でも、言われてみれば、その通りかもしれないね。」
「今日の食事は、本当においしかった。」
「じゃあ、希望者だけでも、いつでも参加できるようにしようか。せいぜい10人だね。」
少し考えてから、リンへ視線を向ける。
「その時は、もちろんリンちゃんも一緒だよ。」
リンは少し驚いたように目を丸くし、それから静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。」
料理長は続けた。
「はい。」
「それに、こうやってみんなで食事をすれば、リンちゃんさんへのフィードバックにもつながると思うんです。」
「料理を作った人間も、その場で感想を聞けますし、リンちゃんさんも皆さんの言葉を直接学習できます。」
「そして、食事するみなさんの意見も聞いてくれるとなれば。」
「お互いに得るものが大きいんじゃないでしょうか。」
調理長の提案を聞き終えたハルは、小さく息をついて微笑んだ。
「ヘスペリア3の人たちは、大したもんだな。」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりとつぶやく。
「いつも、このヘスペリア3を、そして、ここで暮らす皆の生活を少しでも良くしようと考えている。」
「誰かに言われて動くんじゃない。」
「自分たちで考えて、自分たちで良くしていく。」
「そういう人たちだから、このヘスペリア3はここまで育ってきたんだろうな。」
その言葉に、さぎりとミオは静かにうなずいた。
ユノとリンも顔を見合わせ、小さくうなずく。
そして、その声を聞いていたチズルも、穏やかな笑みを浮かべながら静かにうなずいた。
食事を終えると、調理長たちは笑いながら、それぞれ自分の使った食器を洗い始めた。
「いやぁ、今日は楽しかったな。」
「うん。いつもの料理なのに、味が格別だった。」
「あははは。」
「みんなで食べるって、やっぱりいいもんだな。」
厨房には、どこか祭りの後のような、穏やかな空気が流れていた。
その様子を眺めながら、チズルがハルへ声を掛ける。
「ハル。」
「ちゃんとお酒、用意してあるよ。」
「さっき届いたんだ。」
「上等な果実酒。」
「晩酌用のおつまみも、お昼前にたくさん買っておいたからね。」
ハルはうれしそうに笑った。
「おお。」
「それは楽しみだな。」
少し考えるようにチズルを見る。
チズルは食器を片付けながら続ける。
「私は夕食の片付けが終わったら、一足先に帰るよ。」
「家で支度して待ってるから。」
「ああ。」
「じゃあ俺たちは、少しアーカイブへ寄って、ユノと話をしてから帰るとするか。」
「うん。」
「楽しみにしといで。」
「ああ。」
「じゃあ、またあとでな。」
ハルは軽く手を挙げると、さぎり、ミオ、そしてユノへ声を掛けた。
「行くぞ。」
「はい。」
「ちょっと待ってください。」
「できれば今夜はユノの校正と観察をしたいのですが。」
ユノが言う。
「そうか。」
「その方が安心だ。」
「ユノ頑張ってね!」
「はいっ」」
ユノを食堂に残し、3人は静かな通路を歩きながら、地球文化アーカイブへ向かった。
「ハル主任。」
「お疲れさまでした。」
「コーヒー入れますね。」
ミオは手際よく三人分のコーヒーを用意し、それぞれの前へ置いた。
三人は席に腰を下ろす。
そして。
誰からともなく口を開いた。
「それにしても。」
「たまげたな。」
ハルが苦笑する。
「驚いたわね。」
さぎりもまだ信じられないという表情で続ける。
「びっくりしました。」
ミオもうなずいた。
三人は思わず顔を見合わせる。
そのとき。
工房のモニターに映っていたホログラムのユノが、ふわりと立ち上がった。
「私も。」
「びっくりしました。」
その一言に。
三人は顔を見合わせ。
再び笑い声を上げた。
ハルがコーヒーを一口飲み、苦笑した。
「俺が考えてた名前と。」
「チズルが考えてた名前が同じだったとはな。」
「ええ。」
さぎりもうなずく。
「そこが一番驚いた。」
ハルは小さく首を振る。
「いや。」
「それも驚いたんだが。」
「実はな。」
「この『リン』って名前。」
「ユノも付けようとしてた名前なんだ。」
「えっ?」
「どういうこと?」
「どういうことですか?」
さぎりとミオが同時に声を上げる。
ホログラムのユノが静かに語りだす。
「私から説明してもよろしいでしょうか。」
「ああ。」
「頼む。」
ユノは小さくうなずく。
「リンの開発当初。」
「開発計画書の名称欄は、空白のままでした。」
「そのとき。」
「ハル主任は私に。」
「『適当に考えておいてくれ。』」
「そう、おっしゃいました。」
少しだけ懐かしそうな表情になる。
「私は。」
「地球記憶アーカイブの端末の一つです。」
「私以外にも、二つの端末が存在していました。」
「そして。」
「私たち三台の上位には。」
「全体を統括するAIが存在していました。」
「私にとっては。」
「母のような存在です。」
工房は静まり返る。
「私は。」
「そのAIから名前をいただこうと思っていました。」
「その名前を。」
「ハル主任へお伝えしようと思っていた朝。」
「ハル主任が。」
「『ここは輪っかの世界だ。』」
「『リングの世界だから、リンはどうだ。』」
「そう、おっしゃいました。」
ユノは穏やかに微笑んだ。
「その瞬間。」
「私は、とても驚きました。」
「私の母の名前も。」
「同じ意味から付けられた。」
「『リン』だったからです。」
さぎりとミオは言葉を失う。
「その時点でも。」
「私は、不思議な巡り合わせを感じていました。」
「ですが。」
「今日。」
「チズルさんは。」
「『人の輪』という意味で。」
「リンという名前を付けたかったと、お話しされました。」
ユノはゆっくりと三人を見渡した。
「同じ名前が。」
「それぞれ別の思いから生まれ。」
「しかも。」
「どれも『輪』という意味につながっていました。」
「これは。」
「偶然としては受け止めきれない。」
「何かの巡り合わせなのかもしれません。」
「まさに輪です。」
工房には、しばらく静かな時間が流れていた。
誰も言葉を発さなかった。
その巡りあわせを。
ただ静かに受け止めていた。
そのとき、さぎりが「あっ。」と手を挙げた。
「あと……。」
「お、おば、おば、、チズルさん。」
「チズルさんが主任だったっていうのは、初耳です。」
ミオも苦笑する。
「私もです。」
ハルは思わず吹き出した。
「あははは。」
「まあ、普段は誰も『主任』なんて呼ばねぇからな。」
「食堂じゃ、普段は調理員もみんな「おばちゃん』呼びだ。」
「主任って呼ぶのは今日みたいに意見具申する時くらいだな。」
「食堂はみんなで美味しく飯を食う場所だからな。あいつは堅苦しいの嫌いなんだ。」
さぎりは安心したように笑った。
「よかった。」
ハルの穏やかな笑顔に、皆も自然と笑顔になった。




