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木星の雨音 第一部  作者: ぴいちゃん


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3/10

第三章 ――十一年先の声――

 その日の夜。

 保存庫へ奇妙な通信が届く。

 極めて古い長距離通信規格。

 外宇宙からだった。


 《雨の音を送ってもらえませんか》


 発信元。


 《NOAH》


 保存庫が静まり返る。

 ユノのホログラムが、

  わずかにノイズを揺らした。

『旧式深宇宙通信規格です』

「深宇宙……?」

『現在使用されている木星圏通信網とは互換性がありませんが

私にはその通信規格があります。

保管庫ですので。』

 さぎりは、

  端末を見つめた。

 《NOAH》。

 聞いたことのない名前だった。

 ユノが続ける。

『旧地球航宙局記録に、一部該当名称があります』

「どんな船?」

『断片的記録しか残っていません』

 ノイズ。

『第一世代木星圏移住コロニー船計画』

 さぎりは眉をひそめる。

「木星圏移住?」

『はい』

『地球人口増加期に計画された、

  初期木星圏移民プロジェクトです』

 ホログラム上へ、

  古い記録映像が浮かび上がる。

 巨大な船。

 建造ドック。

 回転リング。

 推進ユニット。

挿絵(By みてみん)

『《NOAH》は、

  本来、

  木星圏へ移住するための大型コロニー船でした』

 だが。

 記録の途中から、

  大量の欠損が始まる。

 ノイズ。

 警告表示。

 赤い文字。

 《減速系重大障害》

 《木星圏捕捉失敗》

 《軌道逸脱》

 さぎりは息を呑む。

『《NOAH》は木星圏到達時、

  減速系トラブルを起こしました』

『木星重力圏への完全捕捉に失敗』

『そのまま太陽系外縁方向へ流出したと推定されます』

 静かな保存庫へ、

  冷却音だけが響いている。

「……止まれなかったんだ」

『はい』

『推進そのものではなく、

  “減速できなかった”』

『そのため、

  《NOAH》は太陽系外縁部まで流されました』

 木星圏に住むはずだった船。

 通り過ぎてしまった船。

 二百年以上、

  帰れなかった船。

 その船から、

  今、

  通信が届いている。

 さぎりは、

  しばらく黙っていた。

 それから。

 保存庫端末へ向かう。

 地球の雨音記録。

 夜の住宅街。

 アスファルトを叩く雨。

 遠くの車。

 換気扇。

 テレビの音。

 生活音。

 “地球”。

 それを転送する。

 送信完了。

 だが。

 返事は来ない。

 その日は、

  それで終わった。

 翌日も。

 何も来なかった。

 三日後。

 まだ来ない。

 さぎりは、

  少しだけ落ち着かなくなっていた。

「……壊れてたのかな」

 ユノが答える。

『現在推定距離では、

  通信往復に約二週間必要です』

「……あ」

 そこでようやく気付く。

 遠い。


木星圏と地球圏との通信は通常片道1~2時間程度。

さぎりはその感覚でミオに通信を送っていた


 想像以上に。

 今の通信は、

  会話ですらない。

 手紙だった。

 一週間後。

 返信が届く。

 《……これが雨なんですね》

 短い文章。

 ノイズ混じり。

 《不規則なのに、安心します》

 それだけだった。

 でも。

 さぎりは、

  しばらく画面を見つめていた。

 彼らは、

  本物の雨を知らない。

 本物の空を知らない。

 風も。

 湿度も。

 匂いも。

 知らない。

 さらに数日後。

 別の通信が届く。

 今度は映像付きだった。

 ノイズ。

 暗い通路。

 むき出しの配管。

 低い循環音。

 そして。

 小さな少女が映る。

 白い作業服。

 補修跡だらけの袖。

 短い暗めの金髪。

 年齢は、

  八歳くらいだった。

 少女は、

  少し緊張した顔でこちらを見る。

『こんばんは』

 音声は遅れる。

 映像も荒い。

 でも。

 ちゃんと人間だった。

 さぎりは、

  思わず座り直す。

 少女は、

  ぎこちなく小さく手を振った。

『ミオです』

挿絵(By みてみん)

 少し間が空く。

 通信遅延。

 それから。

『雨、ありがとうございました』

 さぎりは、

  自然と笑っていた。

「……どういたしまして」

 もちろん、

  この返事が届くのは一週間後だ。

 それでも。

 不思議と、

  会話している気がした。

 それから通信は続いた。

 毎日ではない。

 だが、

  数日に一度。

 互いにメッセージを送り合う。

『空って、どこまでありますか?』

『風って押されますか?』

『雨って冷たいですか?』

『木星は本当にあんな色なんですか?』

 ミオは、

  何でも知りたがった。

 さぎりは、

  一つずつ答えた。

 ある日。

 さぎりは、

  木星を映した映像を送る。

 巨大な雲帯。

 雷。

 大赤斑。

 ゆっくり回る褐色の渦。

挿絵(By みてみん)

 その返信は、

  二週間後に届いた。

『……大きい』

 しばらく無言。

 それから。

『怖いくらい綺麗です』

 別の日。

 ミオは、

  NOAH内部を撮影した映像を送ってきた。

 暗い。

 とにかく暗かった。

 照明は最低限。

 配管はむき出し。

 壁には何世代もの補修跡。

 継ぎ接ぎ。

 再利用。

 再配線。

挿絵(By みてみん)

 二百年以上、

  修理を重ね続けた船。

 もはや、

  船というより、

  閉じた文明だった。

『ここ、

  第三循環区画です』

 ミオが歩く。

 背後では、

  低い機械振動が響いている。

『この音、

  寝る時もずっと聞こえます』

 少し笑う。

『だから、

  静かだと逆に怖いんです』

 さぎりは、

  少しだけ驚いた。

 自分と同じだった。

 ヘスペリア-3でも、

  機械音は“生活音”だった。

 ある日の通信。

 保存庫の照明は静かに明滅していた。

 さぎりは、

  端末へ届いたメッセージを開く。

 七日前に送信されたもの。

 ノイズ。

 少し乱れた映像。

 白い作業服のミオが映る。

 前より少しだけ背が伸びていた。

『こんばんは』

 映像の向こうで、

  小さく手を振る。

『今日は、座標を送ります』

 ミオが端末を持って移動する。

 暗い通路。

 むき出しの配管。

 低い循環音。

 やがて、

  小さな観測窓へ辿り着く。

 窓の外には、

  ほとんど何も無かった。

 暗い宇宙。

 遠い恒星。

 そして。

 小さな太陽。

 さぎりは息を呑む。

 遠すぎた。

挿絵(By みてみん)

 ミオの声が続く。

『現在、《NOAH》は旧太陽系外縁航路を減速中です』

『オールト雲内縁宙域、推定距離……』

 ノイズ。

 少し音声が乱れる。

『木星圏到達予測、約十一年』

 保存庫が静まり返る。

 十一年。

 その数字だけが残る。

 ミオは、

  少し困ったように笑った。

『遠いですよね』

 その言葉が届いたのは、

  一週間後だった。

 さぎりは、

  しばらく返事を書けなかった。

 窓の向こうでは、

  氷輸送船が静かに接岸している。

 《グゥゥゥゥン……》

 低い振動。

 ヘスペリア-3は、

  今日も人の声と光で満ちていた。

 でも。

 その遥か外。

 十一年離れた場所に、

  同じように機械音を聞きながら暮らしている少女がいる。

 さぎりは、

  ゆっくり端末へ向かった。

 《遠いね》

 少し考える。

 それから。

 《でも》

 《待てる距離だよ》

 送信。

 この言葉が届くのは、

  また一週間後だった。


つづく

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