第二章 ――地球の匂い――
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17歳の保守員、さぎりは、
中央軸の保守通路を歩いていた。
ここは無重力。
白い照明。
むき出しの配管。
低い機械音。
窓の向こうを、
氷輸送船がゆっくり通過していく。
巨大な氷塊。
静かな姿勢制御噴射。
遠くには、
木星。
褐色の雲帯が、
ゆっくり回転していた。
ヘスペリア-3は、
珍しく“明るい”衛星だった。
1Gの居住区では
暖色系の照明。
人の声。
洗濯機の音。
誰かの笑い声。
宇宙で長く暮らす人間の精神維持のため、
初期設計者たちが
“生活感”を重視したからだった。
宇宙の中なのに、
そこには“暮らし”があった。
ヘスペリア3には
巨大な農業リングも存在している。
栽培ブロック。
水耕栽培。
藻類培養槽。
果樹エリア。
湿った空気。
送風機の音。
植物の匂い。
そこだけは、
少しだけ地球に近い空気だった。
栽培された作物は、
そのまま食卓へ並ぶわけではない。
藻類はタンパク素材へ。
イモ類や穀物は乾燥加工され、
栄養基材へ変換される。
培養タンパクや香草類も加えられ、
2つの居住リングのそれぞれ3箇所の食堂ごとに調理される。
宇宙では効率が重要だった。
でも。
ヘスペリア-3では、
“食事”もまだ文化として残っていた。
仕事を終えたさぎりは、
居住リングの食堂区画へ入った。
夕食時間。
食堂は賑わっている。
金属トレイの音。
誰かの笑い声。
調理機械の駆動音。
湯気。
カウンターには、
今日のメニューが並んでいた。
培養タンパクのソテー。
藻類スープ。
水耕栽培レタス。
香草風味のイモペースト。
小さな柑橘類。
そして、
保存パン。
もちろん、
地球ほど豊かではない。
でも。
少なくとも、
“味気ない燃料”ではなかった。
「今日は当たりだな」
隣の整備員が笑う。
「柑橘出てるじゃん」
食堂のおばちゃんが言う。
「農業区画の収穫多かったからね!」
さぎりは、
トレイを受け取る。
ほんのり温かい。
スープから、
薄い香草の匂いがする。
それだけで、
少し安心する。
窓際の席へ座る。
巨大な木星が見える。
褐色の縞模様。
ゆっくり回る雲。
その前を、
氷輸送船が横切っていく。
巨大な氷塊。
それを支える固定アーム。
ヘスペリア-3の人々は、
あの氷で生きていた。
さぎりは、
保存パンをちぎる。
少し硬い。
でも、
噛むと甘みがある。
スープを飲む。
温かい。
疲れた身体へ、
熱が落ちていく。
その時。
隣席の整備員が、
培養肉へ赤いソースをかけていた。
「また辛いやつ?」
「ハマると抜けられねえぞ」
「主任も好きだよな、あれ」
「ハル主任? あの人、味濃いの好きだからなぁ」
笑い声。
さぎりは、
その光景をぼんやり見ていた。
ヘスペリア-3の食事は、
決して豪華ではない。
でも。
ちゃんと、
“人が食べるためのもの”だった。
その時。
さぎりの端末へ通知が届く。
《第零保存区画 点検要請》
「……ゼロ区画?」
聞いたことのない名前だった。
「工業リングの…」
エレベーターを降りる。
低いモーター音。
長い下降。
「ここらへんかな…」
そして。
発報されたと思われる場所に着く。
扉が開いた。
橙色の照明。
古い保存ラック。
静かな冷却音。
プレートには、
こう書かれていた。
《EARTH MEMORY ARCHIVE》
地球記憶保存庫。
ヘスペリア-3建造初期。
地球文化消失を危惧した研究者たちが、
極秘に設置した文化保存施設だった。
でも現在は半封鎖状態。
存在を知る住民すら、
ほとんどいない。
「……なにここ」
その瞬間。
ノイズ混じりの女性型ホログラムが浮かび上がる。
輪郭が少し乱れている。
『こんばんは』
「うわっ!?」
『管理補助AI、ユノです』
静かな声だった。
長い時間を、
ここで過ごしてきたような声。
ユノは、
旧世代文化保存AIだった。
本来は複数存在した。
でも。
現在稼働しているのは、
ユノだけだった。
『ここは、地球時代の文化記録保存施設です』
保存されていたのは、
不思議なものばかりだった。
雨音。
夕暮れ。
踏切。
コンビニ。
帰宅風景。
猫。
意味なんて無さそうな映像。
でも。
なぜか胸が締め付けられた。
さぎりは、
一つの映像を再生する。
夜の住宅街。
雨がアスファルトを叩いている。
換気扇。
車の走行音。
遠くのテレビ。
ただ、それだけ。
でも。
「……生きてる音、する」
ユノは静かに答えた。
『地球は、音の多い星でした』
それから。
さぎりは毎晩のように、
保存庫へ通うようになった。
仕事が終わると地下へ降りる。
ユノと話しながら、
地球の記録を見る。
夕暮れ。
夏祭り。
雪。
誰かの食卓。
知らないはずなのに、
懐かしかった。
ある夜。
さぎりは古い料理記録を見つける。
鍋。
湯気。
木製のスプーン。
誰かの笑い声。
『今日、みんなでカレーを作りました』
古い宇宙船の記録だった。
画面の中では、
誰かが玉ねぎを炒めている。
じゅう、という音。
油の跳ねる音。
『地球の味がしました』
ノイズ。
『……帰りたいな』
映像はそこで終わった。
保存庫が静まり返る。
遠くで冷却音だけが響いている。
さぎりは、
しばらく画面を見つめていた。
それから、小さく呟く。
「……作れるかな」
ユノが答える。
『保存庫に旧式調理設備があります』
「ほんとに?」
『研究員用簡易キッチンです』
保存庫の奥。
普段使われていない区画。
そこには、
小さな調理スペースが残されていた。
古いIHヒーター。
金属製の鍋。
黄ばんだ調理記録パネル。
さぎりは半信半疑で材料一覧を見る。
乾燥玉ねぎ。
保存ジャガイモ。
合成タンパクブロック。
そして。
「……スパイス?」
『地球時代に使用されていた香辛料群です』
「香辛料なんてまだ残ってたの」
『保存庫は文化保存施設ですので』
数十分後。
さぎりは、
慣れない手つきで玉ねぎを切っていた。
「うわ、目痛っ……」
『地球時代にも同様の苦情が記録されています』
「なんでそんなもの残してるのよ……」
フライパンへ油を落とす。
じゅっ、と音がした。
その瞬間。
保存庫の空気が変わる。
油の匂い。
熱。
“調理している匂い”。
普段の宇宙生活では、
嗅いだことのない空気だった。
さぎりは目を丸くする。
「……すご」
玉ねぎを炒める。
透明だった色が、
少しずつ茶色へ変わっていく。
じゅうじゅうという音。
湯気。
匂い。
保存庫の橙色の照明の中で、
その湯気だけがやけに生々しく見えた。
次に、スパイスを入れる。
その瞬間だった。
ぶわっ、と香りが広がる。
少し甘いような。
刺激的なような。
土っぽくて。
でも、温かい匂い。
さぎりは思わず振り返る。
「な、なにこれ……!」
普段の宇宙生活では、
嗅いだことのない匂いだった。
ユノが静かに言う。
『地球時代、人類は食事へ香りを求めていました』
「非効率ね」
『はい』
「でも……なんか、すごい」
保存ジャガイモ。
合成タンパク。
水。
煮込む。
ぐつぐつという音が、
静かな保存庫へ響く。
さぎりは鍋を見つめながら、
小さく笑った。
「料理って、こんな感じなんだ」
『当時の記録によると、“待つ時間”も重要だったようです』
「待つ時間?」
『はい。“まだかな”と思う時間です』
「……変なの」
でも。
悪くない気がした。
完成したカレーは、
少し不格好だった。
でも。
匂いがした。
“生き物みたいな食べ物”だった。
さぎりはスプーンですくう。
熱い。
少し辛い。
香りが鼻へ抜ける。
その瞬間。
さぎりは目を見開いた。
「……うわ」
どこか味気ない食堂の料理とは全然違った。
味だけじゃない。
温度。
匂い。
舌触り。
全部が複雑だった。
身体の中へ、
何かが広がっていく感じがした。
「……なんか」
さぎりは、ぽつりと言う。
「生き返る感じする」
ユノは静かに答えた。
『地球時代にも、同様の感想が多数記録されています』
さぎりは吹き出した。
「そりゃそうでしょ」
保存庫には、
機械音とカレーの匂いが混ざっていた。
その時。
さぎりは思った。
地球って、
案外こういう匂いのする星だったのかもしれない、と。
つづく




