第29章 ――私のお母さん――
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――私のお母さん――
翌朝。
NOAHの朝はヘスペリア3とは違っていた。
壁の向こうを流れる配管の音。
遠くで唸る空調設備。
時折。
ぐうん――
と船のどこかで動く大型機械の振動が伝わってくる。
静かではない。
けれど。
その音はどこか安心する音だった。
二百年以上。
人を乗せて走り続けてきた船の鼓動。
そんな音だった。
朝食の時間。
三人は食堂にいた。
トレーの上には保存パン。
豆類や藻類から作られたタンパク質ペースト。
そして野菜を加工して固めた緑色のゼリー。
昨日とほとんど変わらない。
NOAHでは当たり前の朝食だった。
周囲を見回しても同じだった。
子供も。
大人も。
みんな同じものを食べている。
違うのは量くらい。
昨夜あまり眠れなかったさぎりは、あくびをしながらゼリーをつつく。
「これ。」
「うん。」
「やっぱり慣れない。」
少し眠そうなミオが笑った。
そして保存パンをかじる。
「でも昔よりずっと良くなったんだよ。」
「そうなの?」
「うん。」
ミオは頷いた。
「作物が不作だった時期もあったから。」
「不作?」
「水耕栽培区画の病気とか設備故障とか。」
「二百年以上もあると色々あるんだよ。」
さぎりは驚いた。
「その時はどうしたの?」
「点滴。」
「え?」
「栄養剤。」
ミオはあっさり言った。
「食事を減らして、不足分を補った時期が何回かあったんだって。」
「今でも豊作の時の作物は保存食と、点滴を優先的に備蓄して」
「余ったらご馳走になるw」
さぎりは思わず周囲を見回した。
笑う子供たち。
談笑する大人たち。
そんな光景からは想像もできない。
「大変だったんだ。」
「うん。」
ミオは頷く。
「でも乗り越えた。」
「だから今がある。」
少し赤い顔をしてから
「私はさぎりに出会えた。」
近くのテーブルから笑い声が聞こえた。
白い制服の子供たち。
その向こうには親たち。
隣には昨日見かけたツインテールの男性もいる。
ミオがその光景を見ながら言う。
「ヘスペリア3と繋がってから。」
「物資も。」
「電力も。」
「水も。」
「食料も。」
「心配しなくてよくなった。」
少しだけ嬉しそうに笑う。
「だから前よりみんな明るい。」
さぎりは子供たちの笑顔を見つめた。
その言葉には実感があった。
七、八年前。
(回想。第四章参照)
【NOAHとの量子通信を可能にするために。
ヘスペリア3は大規模な電力増強計画を実施した。
エウロパから運ばれる氷の輸送量を増やし。
氷保存設備を拡張し。
発電量にも余裕を持たせる。
氷輸送船の運用速度も見直された。
従来は接続時の速度差を時速五十キロ程度に抑えていたが。
百五十キロまで引き上げることで発電量を増やした。
量子通信装置は膨大な電力を消費する。
それでも十分な余裕を確保できるようにするためだった。
発案者はハル主任だった。
そして。
その計画書を書いたのはさぎりだった。
当時はただの数字の羅列に見えた。】
回想終わり。
ただミオに会いたいだけだった。
けれど。
今こうして笑う子供たちを見ていると。
あの計画は確かに人の暮らしに繋がっていたのだと分かる。
さぎりは少しだけ誇らしい気持ちになった。
あの時のハル主任の言葉が思い浮かぶ。
「……客が来るかもしれねえだろ」
今こうして笑う子供たちを見ていると。
あの時机の上で眺めていた数字の向こうに。
ちゃんと人の暮らしがあったのだと分かる。
さぎりは少しだけ誇らしい気持ちになった。
さぎりは思い出しながら頷いた。
子供たちを見ながら。
「ねえ、ミオ。」
「ん?」
「NOAHって。」
「うん。」
「人口の維持ってどうなってるの?」
ミオはきょとんとした。
そして。
「ああ。」
と頷く。
少し考えてから。
ミオは笑った。
「お母さんのこと気になってる?」
さぎりは驚いた。
「分かる?」
「さぎりの考えてることは大体分かるよ。」
食事を終えるとミオは立ち上がった。
「会いに行く?」
「え?」
「私のお母さん。」
さぎりは瞬きをした。
「会えるの?」
「うん。」
ミオは笑う。
「来て。」
食堂を出る。
居住区画を抜ける。
医療区画へ向かう。
人通りは少しずつ減っていく。
やがて。
一つの扉の前でミオが立ち止まった。
扉が開く。
NOAHの居住区よりも遥かに明るかった。
さぎりは思わず息を呑んだ。
そこには古い設備が並んでいた。
透明アルミニウム制培養槽。
複雑な配管。
管理装置。
どれも古い。
けれど。
どれも丁寧に保存されていた。
ミオが一つの培養槽を見上げる。
「これ。」
静かな声だった。
「私のお母さん。」
「え?」
さぎりは思わず聞き返す。
「今はほとんどは人工子宮だよ。」
さぎりの動きが止まった。
「え?」
「人工子宮。」
「ヘスペリア3は違うの?」
「違うよ。」
「普通にお母さんから生まれる。」
今度はミオが少し驚いた顔になる。
ユノが補足した。
「NOAHでは人口維持計画の一環として人工子宮施設が運用されています。」
「現在確認されている記録では。」
「住民の約七十から七十二パーセントが人工子宮によって誕生しています。」
「そんなに?」
さぎりは食堂にいた家族のことを思い出していた。
どこから見ても普通の家族だった。
だからこそ驚く。
「ミオも?」
「うん。」
ミオは頷く。
「私もそう。」
そして透明アルミニウムの筒に触れる。
「私、ここで生まれたんだ。」
その時。
さぎりは培養槽の下に小さなプレートがあることに気付いた。
そこには文字が刻まれていた。
ELARA
「エララ?」
「うん。」
ミオが頷く。
「この人工子宮の名前。」
「お母さんの名前。」
さぎりは周囲を見回した。
他の培養槽にも名前が付いている。
AMALTHEA
GANYMEDE
CALLISTO
THEBE
LEDA
CARME
ANANKE
PASIPHAE
METIS
さらに奥にも続いていた。
古い培養槽の列。
一つ一つに違う名前。
そして。
ふと気付く。
「あれ?」
ミオが振り向く。
「どうしたの?」
「これって。」
さぎりは周囲を指差した。
「全部木星の衛星の名前じゃない?」
ミオは少し驚いた。
「あ。」
「そういえばそうだった。」
「小さい頃に聞いたことある。」
ユノが静かに言う。
「その通りです。」
「NOAH建造当時。」
「人類は木星圏への移住を夢見ていました。」
「そのため人工子宮には木星の衛星名が与えられています。」
さぎりは再びエララを見る。
二百年以上前。
まだ誰も木星へ辿り着いたことのなかった時代。
それでも人々は木星を見つめていた。
未来を見つめていた。
そして。
未来に生まれる子供たちへ。
その憧れを託した。
「そうだったんだ。」
さぎりは小さく呟く。
ミオもエララを見上げる。
少しだけ誇らしそうに笑った。
「私。」
「エララ生まれなんだ。」
少しの沈黙。
そして。
ミオは円柱の透明アルミニウムに手を置いたまま小さく言った。
「お母さん。」
「久しぶり。」
さぎりは黙って見守る。
ミオは少し照れくさそうに笑った。
「宇宙で一番大切な人ができたよ。」
その瞬間。
さぎりが勢いよく頭を下げた。
「ミ、ミオさんとはっ!」
「そのっ!」
「わ、私の一番大切な人でっ!」
ミオが吹き出した。
「お母さんは聴こえないよ。」
「でも。」
ミオはエララを見上げる。
「さぎりと私の気持ちは伝わると信じてる。」
さぎりは少し顔を赤くした。
ユノは静かに二人を見ている。
しばらくして。
ミオが再び透明アルミニウムに触れた。
「もちろん。」
「育ててくれたお母さんもいるよ。たくさん。」
さぎりは振り向く。
「毎日会いに来てくれたお母さん。」
「絵本を読んでくれたお母さん。」
「歌を歌ってくれたお母さん。」
「だから普通のお母さんがたくさん。」
少し照れくさそうに笑う。
さぎりも思わず笑った。
ユノが静かに言う。
「出生方法は様々です。」
「ですが。」
「誰に愛されて育ったかの方が重要なのかもしれません。」
ミオは頷く。
「うん。」
そして再びエララを見上げた。
「だから。」
「ここも私のお母さんなんだ。」
さぎりも透明な培養槽を見上げる。
三キロ級の宇宙船。
二百年以上の旅。
その中で育まれた命。
不思議だった。
けれど。
どこか温かかった。
NOAHの人々が守り続けてきたものを。
さぎりは少しだけ理解した気がした。
二百年以上。
この船で生まれてきた人々。
そのほとんどが。
ここから世界を見始めた。
二百年以上前の人類は。
人類を未来へ繋ぐためなら。
どんな方法でも選んだのだろう。
さぎりは最後にもう一度だけ。
エララを見上げた。




