第20章 ――ただいまと言える場所――
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ミオがヘスペリア-3へ住むことになった日。
居住リング。
さぎりの部屋。
正確には。
かつてさぎりが両親と暮らしていた部屋だった。
「広い……。」
ミオは思わずそう呟いた。
NOAHの居住区画も決して狭くはなかった。
だが。
ここは違う。
玄関がある。
リビングがある。
個室がある。
窓がある。
そして。
木星が見える。
「余ってるから。」
さぎりはあっさり言った。
「元々三人用だし。」
ミオはもう一度部屋を見回した。
これから。
ここが自分の家になる。
まだ少し実感がなかった。
その日の夜。
さぎりは洗面所の方を指差した。
「先に使う?」
ミオは首を傾げる。
「何を?」
「シャワー。」
数秒。
沈黙。
「……シャワー?」
さぎりは少し考えた。
そして気付いた。
「あ。」
「使ったことない?」
ミオは頷いた。
「ない。」
NOAHでは貴重な水は全て循環管理されていた。
身体を洗うために大量の水を使う文化はない。
支給される洗浄剤と洗浄布。
それで身体を拭く。
それが当たり前だった。
「どうやって使うの?」
ミオは真顔で聞いた。
さぎりは少し困った顔になる。
しばらく考えて。
「じゃあ、一緒に入る?」
そう言った。
洗面所。
シャワーブース。
ミオは興味深そうに辺りを見回している。
まるで未知の機械を観察する整備員のようだった。
「ここで服を脱ぐ。」
「うん。」
「それで中に入る。」
「うん。」
「で、これ。」
さぎりが壁のパネルを押す。
次の瞬間。
ザーッ。
勢いよく温水が流れ始めた。
「うわっ!」
ミオが飛び上がる。
さぎりは思わず吹き出した。
「そんな驚く?」
「驚く!」
ミオは本気だった。
恐る恐る手を伸ばす。
温かい水が指先に触れる。
「温かい。」
「温水だから。」
「すごい……。」
ミオはしばらく水を見つめていた。
ただ流れているだけなのに。
それが不思議だった。
さぎりは洗浄剤を手に取る。
「まず髪。」
「髪?」
「うん。」
泡立てる。
ミオは少し緊張していた。
さぎりが髪に触れる。
優しく泡を広げていく。
「目閉じて。」
「こう?」
「そうそう。」
ミオは言われるまま従う。
泡。
温かい水。
不思議な感覚だった。
しばらくして。
髪を流し終える。
「終わり。」
「終わった。」
ミオは少し驚いていた。
髪が軽い。
頭が軽い。
そんな感じだった。
「毎日やるの?」
「毎日。」
「毎日?」
「毎日。」
ミオはしばらく考えた。
そして。
「ヘスペリアすごい。」
真顔で言った。
さぎりは笑う。
「エウロパのおかげ。」
「水いっぱいあるから。」
シャワーを終えて洗面所を出る。
ミオは濡れた髪を触った。
さらさらしている。
不思議だった。
窓の向こうには木星。
その下にはエウロパ。
あの氷の世界から運ばれてくる膨大な水。
NOAHでは考えられない贅沢だった。
「どう?」
さぎりが聞く。
ミオは少し考えた。
そして。
小さく笑った。
「気持ちいい。」
それが人生で初めてのシャワーだった。
その夜。
ミオは何度も目を覚ました。
何かがおかしい気がして。
何かが足りない気がして。
そして気付いた。
静かすぎるのだ。
NOAHでは常に何かの音が聞こえていた。
空調。
循環ポンプ。
機械の振動。
誰かの足音。
誰かの話し声。
だが。
ヘスペリア-3の夜は違う。
驚くほど静かだった。
翌朝。
ミオが部屋を出る。
すると。
キッチンの方から声がした。
「おはよう。」
「おはよう。」
さぎりだった。
少し寝癖が残っている。
ミオは思わず笑った。
「寝癖。」
「うそ。」
慌てて髪を触るさぎり。
ミオは吹き出した。
そんな他愛もない朝だった。
テーブルの上には朝食が並んでいる。
保存パン。
果物。
飲み物。
発酵乳。
「作らないんだ。」
ミオが言う。
「作らないよ。」
さぎりが答える。
「朝ご飯は?」
「昨日もらったやつ。」
冷蔵庫を開く。
そこには昨夜食堂でもらった朝食セットが入っていた。
ミオは少し驚いた。
「配給?」
「ちょっと違うかな。」
さぎりは首を傾げる。
「夕食の帰りにもらうの。」
「へえ。」
「一人暮らしも多いし。」
「朝はみんな忙しいから。」
なるほど。
合理的だった。
ミオは保存パンをかじる。
窓の向こうでは。
木星が流れている。
朝から木星が見える。
それだけでもまだ不思議だった。
数日が過ぎた。
昼はそれぞれ別行動。
さぎりは仕事。
ミオは見学や研修。
夕方になると自然と食堂で合流する。
「また来たな。」
食堂のおばちゃんが笑う。
「来ました。」
ミオも笑う。
もう顔を覚えられていた。
食事を終える。
すると。
おばちゃんが袋を差し出した。
「ほら。」
「朝飯。」
ミオが受け取る。
少し重い。
「今日は当たりだぞ。」
「当たり?」
袋を覗く。
果物が入っていた。
「リンゴだ。」
「おっ。」
さぎりも覗き込む。
「本当だ。」
おばちゃんが得意そうに笑った。
「今日届いたばっかりだからな。」
ただの果物。
それだけなのに。
ミオは少し嬉しかった。
ある日。
ミオは棚の前で立ち止まった。
「これ何?」
棚には色々な物が並んでいた。
小さな模型。
古い写真。
石。
アーカイブから再現した地球の小物。
どれも生活には必要ない。
「飾り。」
さぎりが答える。
「飾り?」
「うん。」
ミオは不思議そうな顔をした。
「必要なの?」
さぎりは少し考える。
そして。
「必要じゃない。」
そう答えた。
「でも好きだから置いてある。」
ミオはしばらく棚を見ていた。
必要じゃない。
でも置いてある。
その感覚はまだよく分からなかった。
だが。
少しだけ分かる気もした。
夜。
窓際のソファ。
二人は並んで座っていた。
木星が見える。
巨大な雲の模様が流れていく。
静かな時間だった。
「変な感じ。」
ミオが言った。
「何が?」
「家。」
さぎりは少し考える。
「家?」
「うん。」
ミオは木星を見つめたまま続けた。
「帰る場所がある。」
その言葉に。
さぎりは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ笑った。
そして。
静かに頷いた。
しばらく沈黙が続く。
それは気まずい沈黙ではなかった。
居心地のいい沈黙だった。
やがて。
時刻表示が夜を示す。
そろそろ寝る時間だった。
ミオは立ち上がる。
そして。
何気なく言った。
「おやすみ。」
さぎりも答える。
「おやすみ。」
当たり前の言葉。
だが。
ミオにとっては少し特別だった。
明日もまた。
同じ部屋で目を覚ます。
同じ家へ帰る。
そのことが。
少しだけ嬉しかった。
窓の向こうで。
木星は静かに輝いていた。




