ある晴れた日に
いつもと変わらない日だった。
空は晴れ、白い絵の具を置いたように、所々に白い雲が浮かんでいた。
うさぎはいつものように、ポットにお茶を入れると、店の片隅のテーブルで本を開いた。
日差しが降り注ぎ、暖かそうな外には目もくれず。
こんなよく晴れた日の午前中は、みな家の掃除や洗濯に精をだすはず。
ことに、何日も続いた雨の後であれば尚更。
よって、今日の午前中は開店休業状態に違いないと、うさぎは読書にいそしむことにしたのだ。
そうでなくても、いつもしてることじゃんと、この店……“魔法屋シェル”の店主の孫、伊吹が聞けば、口を尖らせ、あるいは呆れて反論しそうなことである。
その伊吹は、掃除と洗濯を済ませると、子どもらしく外へ遊びに行った。 お昼には帰ってくるよと言い、また行き先と誰と行くかまで告げて行く辺り、自分の教育の賜物だなと自画自賛するうさぎだった。
なにせ、伊吹とその父親の千樹の面倒を見てきたのは、このうさぎだったりするわけで。
植物学者である千樹は、一度採集旅行に出れば、なかなか戻ってこない。 危険な場所にも行くので、子どもは彼の父親……伊吹には祖父に当たる矢萩に預けたのだ。
預けるという千樹に、当初うさぎは反対した。
「ロクに戻ってこないんだぞ、今でさえ店主とは名ばかりで、あちこちフラフラフラフラ、糸の切れた凧のような奴なんだぞ。どうしても預けるんなら、嫁さんのとこの親にしろ」
「ん~でもねえ。彼女のトコ、色々大変みたいでねえ。僕としてはこっちがいいんだけど」
彼女も賛成してくれたしねと言う千樹に、うさぎは大きなため息をつくしか、なかった。
おっとりしてるようで、我は通す奴だった、そういえばそうだったと、かつての子どもを思い出したのだった。
「まったく。ここに居るなら、それなりに仕事はしてもらうぞ」
千樹の腕の中で大人しくしていた伊吹は、嬉しそうに笑った。
「じゃあぼく、ここに居ていいんだ!うわーい」
うさぎ、これからよろしくねと、無邪気に笑いかけられては、もううさぎとしては頷くしかなかった。
小さな体で、引き摺るように荷物を運んでいく背中が見えなくなった頃、千樹が言った。
「よろしくお願いします。多分父さんはロクに此処にいないだろうから、君に世話、まかしちゃうと思うけど」
「まあいいさ。今までだって、短期間なら預かってたんだし、それが長期になるって事で。で、それがいつ頃までなんだ?」
「それがねえ」
千樹の次の言葉に、うさぎは呆れ、驚いた。
「……未定とは……?」
「その言葉通りで。行って、調査してみないと、わからないんだよねえ」
これがと天を仰ぐ仕草をしてみせられても、うさぎとしては非常に困る。
「一年で終わるか、二年かかるか、はたまたもっとかかるのか。おまけに思い切り僻地だから、行ったら途中では帰って来れないと思うんだ」
だから調査が終わらないと帰れない……帰らないと言う千樹に、うさぎは低い声で問い詰めた。
「それ、伊吹に言ったのか?」
幼い子どもが、親と離れて暮らすというのも寂しいだろうに、当の親が帰ってくるのは、いつか不明だなんて。
が、よくも悪くも、千樹はフツウではなかった。
「え、言ったよ?いつ帰って来れるかわからないから、うさぎと一緒に、シェルでお留守番しててね~って」
「お前、それ、伊吹が本当に分かっていると思うか?」
「ん~半分くらいかな?でもさ、あの子言うんだよ。うさぎと一緒なら、お留守番楽しいよって。だからお願いします」
一転真面目な顔で頭を下げられては、うさぎも渋い顔で押し黙るしかない。
「仕方ないな……」
「ごめんね。でも、この調査が終わったらさ、その時は伊吹も連れて行くかもしれないよ」
「そうなのか?」
「あの子が一緒に行きたいって言ったらの話だけどね」
なんにせよ、何年も先の話だよと千樹は笑った。
それは、行きたいと言うか言わないか、どちらを確信しての、笑みだったのか。
“魔法屋シェル”。
魔法関連商品と、日用品を扱う小さな店だ。
店主と店番のうさぎの趣味で、小さな店に似合わぬほどの、多種多彩なお茶も扱っている。客は地元の住人が殆どだが、街の外れにあるため、街から出てきた旅人が、買い忘れた品を買い求めることもあるし、街へと向かう旅人が、足休めに立ち寄ることもある。
店の傍の、大きな木が目印の店。
本を読んでいたはずだったのだが、いつの間にか回想にふけっていたうさぎは、本を閉じ、さめたお茶を口に含んだ。カップを空にして、ポットから新たに注ぐ。保温にすぐれたこのポットは、うさぎの愛用の品だ。
お茶は飲みたい、でも本も読みたい。いいところで席を立つのは嫌だ。そういううさぎの希望を叶えてくれたのが、この保温性にすぐれたポットだったのである。
「にしても、なんで昔のことを思い出したんだか」
眼鏡を押し上げてうさぎは考えた。伊吹を預かった当初の経緯。何年先に帰るかわからないと千樹が言ったとおり、伊吹がここに来てから、季節は何度も巡った。そうして。つい、先日。
「調査に目処がたった」と手紙が届いたのだ。
何事にもマメな千樹は、かかさず手紙を寄越した。
子どもの誕生日はもちろん、季節のイベントもかかさず。
その辺りが、出たら出っ放しの放浪店主とは大違いである。
店主は出かけたきり、連絡一つ寄越さない。今頃はどこの空の下に居るやら。
「まあ、元気でいるならいいさ」
何処にいても、何をしていても。
さて、とうさぎは本を開く。
物思いはそれくらいにして、さあめくるめく書物の世界へ飛び込もう、と文字を追い始めた時。
ばたばたという忙しない足音と、声によってそれは中断を余儀なくされた。
「うさぎ、あのね、お客さんだよっ」
遊びにいったはずの伊吹が、見知らぬ人間を連れて戻ってきたのだ。
「お客?何が要るんだ?」
大抵のことなら、伊吹にもわかる。うさぎが読書モードに入っているとき、伊吹は呆れながらもわかる範囲の事はしてくれるのだ。うさぎに聞くのは、どうしても分からない時か、あるいは。
「そうじゃなくて、うさぎに用があるんだって」
伊吹の背後には、気の弱そうなひょろながい青年がいる。淡い色の髪の毛を、首の後ろで一つに束ねていた。居心地悪そうに、困ったような顔で頭をかいている。
「僕に、かい。一体、どういう用件だい、僕は君の事を知らないんだけど」
「ええと、はじめまして、です。私もあなたと会ったことはないんです。知っては、いましたけど」
青年は、どういったらいいかなあと呟く。
うさぎの眉が、煮え切らない態度に跳ね上がる。
人の楽しみを邪魔しやがって(いつも、暇さえあればしているくせに・伊吹談)とうさぎの機嫌は急降下を始めた。
「あの、うさぎ、すこし落ち着いてね?」
宥めようと伊吹が口を開いたとき、青年はぽんと手を打って、うさぎに向き直った。
「ええ、もう単刀直入に言います。あの、うさぎさん、あなた“託言者”ってご存知ですか?」
青年の言葉に、うさぎは目をきょとんと見開いた。
「……知ってはいるけど、それが何か?」
何それと呟く伊吹には、後で説明してやるからと答え、青年に続きを促す。
「うさぎ様宛てに、託言があります。本日、私はそれをお持ちしました。どうぞお受け取り下さいませ」
「と、言うことは、君……」
うさぎの目が、珍獣でも見る目つきとなったことを気にもせず(あるいは、気づきもせず)青年は朗らかに答えた。
「私が当代の“託言者”でございます」
「名前は知っていたけど、とっくに記録の中でしかお目にかかれないものと思っていたよ」
絶滅危惧種扱いですねえと、青年は笑う。
立ち話も何だからと、テーブルへと移動し、伊吹にはお茶の準備を頼んだ。お客様にはお茶、というのが、矢萩、うさぎの薫陶よろしく、伊吹にも身についている。
ぼくも話、聞きたいのに~と不満げな様子を見せた伊吹だが、「僕宛の伝言なら、プライバシーだよ。君は遠慮してくれ」と言うと、じゃあ仕方ないねと伊吹はお茶の準備をするために奥へ引っ込んだ。
扉が閉まる音を聞いて、うさぎは託言者と名乗る青年に向き直る。
「で、一体誰からの託言なんです」
僕に、そんな酔狂なものを残したのは。青年は答えた。
「椎名さま、と伺っております。椎名さまが、時間守であるうさぎ様に宛てたもの、と」
「そう、彼女がね……」
一つの時計と、役割とをうさぎに託していった彼女。
長い時間が過ぎた今でも、ほんの少し前のことのように、思い出せる彼女。
ふらふら流されるように過ごしていた自分に、重しをくれた。
その彼女が、一体何を伝えようというのだろう。
「それでは、よろしいですか」
「ああ」
頷くと、青年は背筋を伸ばし、言った。
「椎名さまからうさぎさまへ。伝えます。“お久しぶり、元気ですか?他の人を困らせちゃ駄目よ。元気でね”……以上、伝言、確かに申し伝えました」
うさぎはしばし、ぽかんとした顔のまま、青年があのうと気弱に話しかけるまで、かたまっていた。
「あのう、託言、お伝えしたとおりなんですが……」
「託言って、それだけ?」
「ええ、以上です。どうかなさいましたか?」
「いや、だってねえ……長い時間越えて、伝えるのがそんな、フツウの挨拶みたいな……」
そこまで言って、うさぎは気がついた。
もし、矢萩に会わず、魔法屋の店番をすることもなく、千樹や伊吹にも会うことがなかったら。
ここでなく、違う場所に居たのなら。
もしかしたら、彼女から見た長い時間の先には……そんな普通の、当たり前に言われる言葉すら、自分にかけてくれる人はいなかったかもしれないのだ。
当たり前のなんでもない言葉。
だからこそ、彼女は託言という形で、自分に残したのかもしれない。
それほど、心配させてたのかなとうさぎは済まなく思う。
或いは、彼女はそんなこと、考えていなかったかもしれないけど。
彼女流の気まぐれ、遊びのようなものかも、しれないけれど。
「どうか、なさいました?」
押し黙ったうさぎを伺うように、そっと青年は声をかけた。
「いや、なんでもないよ。なんだか、彼女らしい託言だと思って、ちょっと笑いたくなるというか……懐かしいなあと」
「そう、ですか、そう言われるのですね」
なにか、とうさぎが眉をあげると、青年は頭をかいた。
「いえ、わたしどもにしても、これほどの長期に渡る託言は、例のないものでして。あなたが受け取っていただけるか、実のところ不安だったのですよ。そしてですね、これほど長期に渡る託言ですから、受取人を間違えてやしないか、時期を間違えてやしないか、色々不安な面もあったんですよ。勿論、万全を期しておりますが」
慌てて言い添える青年に、うさぎは苦笑した。
「椎名がうさぎに宛てたものなら、この僕で間違いない。時期は、さあ、彼女が何を考えて、この時を選んだのか、わかりようがないがね」
もし今たった一人で居るなら、かつて傍に居た自分を思い出してと?
彼女が何を考えていたのか、今更知る術はないし、また知らなくてもいいことだった。
残されたものが、自分の都合のいいように、解釈すればいいのだ。
そうしても、彼女は笑っているような気がした。
「ありがとう、久しぶりに懐かしい人の名前を聞いたよ」
「いいえ、私も、役目が果たせて一安心です。もっとも、これが最後の仕事になりましたが」
「最後、とは」
「あなたさまもご存知のように、私たちは既に、ないも同然の存在ですから。果たすべき役割が無いのに、その名前だけ名乗っても、無意味でしょう?私が最後の託言者で、このご依頼が最後の仕事でした」
少し寂しげな様子の青年に、うさぎはかける言葉を持たなかった。
「いえ、収入じたいはとうの昔から、副業の方で得ていたんですがね。やはりそこは、拠って立つ基盤があるのとないのとじゃあ、気分的に大違いってもので。立っていた地面を根こそぎ持っていかれるような気分なんですよ」
たとえば、普段は意識せずに大地に足をつけ、歩きあるいは走ったりしているけれど。これがある日無くなったら。
うさぎはそう想像して、なるほど彼が心細そうにしているのも、当然かと思った。
「いえ、これはお客様に話すべきことではありませんでした。申し訳ありません、これが最後かと思うと、少し感傷的になってしまいまして」
「いや、気にしなくていいさ。わざわざ来てくれたんだ、お茶でも飲んでくれ。準備してるから」
うさぎは身軽く椅子から降りると、奥への扉を開け、伊吹の名前を呼んだ。
「なに、もうお話、済んだ?」
「ああ。お茶を出してくれるか?」
「わかった、ちょっと待ってね、すぐ持ってくる!」
「慌てなくていいからな、転ぶなよ」
「わかってるよ~!」
「元気のいい子ですねえ」
ええ、と答えながら、うさぎはあることを思いついていた。
「ところで、託言者なんだが、本当に廃業するつもりかい?」
「ええ、一族とも話し合って、この依頼が完了したら、ということになっておりますが」
「それなら、もし僕が依頼をしたいと言っても、もう受けてはくれないのかい?」
青年はしばし目を見開いて、それから螺子をまかれたおもちゃのように首を振った。
「いえ、いえいえいえ、勿論、お受けいたしますとも!わたしたちだって、廃業などしたくないのですから!ですが、どなたあての託言をされるおつもりで?」
今はいないも同然の“託言者”などを知っているほど、博識であるうさぎならば、伝言を残す様々な手段は知っていると思われた。
「あの子にね、ちょっと遊び心を兼ねて残したいんだよ。何年か経てば、あの子も遠くに行くだろう、そこへ時間も距離も隔てて“言葉”が届くなんて、面白いじゃないか」
それにね、とうさぎは付け加えた。
「どんなに確実そうな手段だって、それ自体が失われれば、伝えることは出来ない。文書が焼かれ、石は削られ……そうしたら、知らない者にとっては、初めから無いのと同じ事になってしまうけど。でも、君たちは長い時間を越えて、彼女の伝言を運んでくれたじゃないか」
だからだよとうさぎは眼鏡の奥の目をきらりと光らせた。
青年はその言葉を聞いて、依頼人の託言と共に伝えられた言葉を思い出す。
彼女も同じように言っていたと。
“文書は焼かれ、刻んだものは削られ、人々の記憶も薄らいでいくなら”
そうして彼女が取った手段は、人の手を介し、言伝という形で伝えるものだった。
「僕の依頼、受けてくれるかな」
うさぎが言うと、青年は背筋を伸ばし、答えた。
「託言者の名において、確かに、承りました」
「お茶、持ってきたよ~」
うさぎ、ここ開けてくれると扉の向こうで伊吹の声がする。今行くと答えながら、うさぎは青年に言った。
「何年後、何を伝えるか、正式に依頼するから。どうかよろしく」
青年は誇らしげに答えた。
「はい、それがわたしたちの仕事ですから」
END
お読みいただき、ありがとうございました。




