第4話 明日もまた
翌朝、春一は縁側に腰を下ろし、ぼんやりと庭を眺めていた。
昨日よりは、この場所にも少しだけ慣れた気がする。朝起きても見知らぬ天井だったことに驚かなくなったし、着物にも昨日ほど手間取らなかった。それでも、ここが五百年近く昔の世界なのだという実感だけは、どうにも馴染まない。
「…………小さいか」
ふいに、隣から声がした。
「ん?」
春一が振り向くと、いつの間に来たのか、信長が少し離れたところに座っていた。
「何が?」
「昨日、あやつが申したであろう」
「日吉丸?」
「織田は今川より小さいと」
「……ああ」
春一は一瞬考えて、それから吹き出しそうになった。
「昨日の、まだ気にしてんの?」
「気にしておらぬ」
「気にしてる奴の言い方なんだよ」
信長がじろりと春一を見る。
「笑うな」
「笑ってねぇよ」
「笑っておる」
「ちょっとだけな」
「春一」
「悪かったって」
春一は口元を押さえながら庭へ視線を戻した。
昨日、侍になりたいと言った日吉丸に、信長は自分へ仕えるよう勧めた。返ってきた答えは、あまりにも迷いのないものだった。
嫌じゃ。織田は今川より小さい。
あの時の信長の顔を思い出すだけで、少し面白い。
「でもまあ」
春一は膝の上に腕を置いた。
「今、小さいってだけだろ」
「……何?」
「日吉丸が言ってたのは、今の話だろ。今川は大きい。織田は小さい。だから大きい方へ行くって」
「それが気に食わぬ」
「気にしてるじゃねぇか」
「…………」
信長が黙り、春一は小さく笑った。
「今小さいからって、ずっと小さいとは限らないだろ」
信長が春一を見る。
「大きいところに生まれた奴より、小さいところを自分で大きくした奴の方が、俺はすごいと思うけどな」
「…………」
「まあ、俺は戦のことなんて分からないし、城主でもないから。好き勝手言ってるだけだけど」
信長は何も答えなかった。ただ、庭の向こうへ目を向ける。
「小さいところを、大きくする……」
小さな声だった。
「できるかどうかは知らんぞ」
「できぬとは申しておらぬ」
「はいはい」
春一が笑うと、信長がわずかに口元を上げた。
昨日までなら、春一は目の前の少年をただ生意気だと思っていただろう。けれど今は少し違う。
十五歳。自分よりずっと年下なのに、城主という立場にいる。大人たちに囲まれ、家を背負い、そのくせ本人はまだ少年だ。そう思うと、どこか放っておけない。
「ところで小春は?」
春一が尋ねる。
「竹千代を連れて、日吉丸のところへ行ったぞ」
「……二人で?」
「そう申しておった」
「大丈夫かよ」
「どちらが?」
「両方」
「過保護ぞ」
「兄貴だからな」
「面倒なものよ」
「お前に兄妹はいないのか?」
何気なく尋ねると、信長は少しだけ目を細めた。
「おる」
「へえ」
「だが、うぬらのように騒がしくはない」
「それはうちが特別なんだよ」
「自覚はあるのだな」
「あるよ」
春一は肩をすくめ、信長が少しだけ笑った。
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「日吉丸ー!」
小春が寺の境内から声を上げる。
「おーい!」
すぐに元気な声が返ってきた。振り向くと、昨日と同じ粗末な着物を着た日吉丸が、ぱたぱたとこちらへ走ってくる。
「おはよう!」
「おう!」
「ちゃんと寝られた?」
「寝られたぞ! 屋根があるとよう眠れるな!」
「それ昨日まで野宿する気だった人が言う?」
「野宿でも眠れる!」
「そういう問題じゃないんだけどなぁ」
小春は苦笑した。
隣にいた竹千代が、小さく頭を下げる。
「おはようございます」
「おお、竹千代も来たんか!」
「はい」
昨日より、竹千代の声は少しだけ明るい。それに気づき、小春は嬉しくなった。
「日吉丸、今日はどうするの?」
「遠江へ行く!」
「今日こそ?」
「今日こそじゃ!」
「昨日も今川行くって言ってたよね」
「昨日は信長様らに捕まったから仕方ない!」
「捕まえてないよ」
「似たようなもんじゃ」
日吉丸はからからと笑う。小春もつられて笑った。
「私たち、これから信長たちのところへ戻るけど……日吉丸も来る?」
「…………」
日吉丸の動きが止まる。
「どうしたの?」
「飯は出るか?」
「そこ?」
「大事じゃ!」
あまりに真剣な顔をするので、小春は思わず吹き出した。
「たぶん出るんじゃない?」
「なら行く!」
「今川は!?」
「飯を食ってからでも行ける!」
「自由だなあ……」
小春が呆れている横で、竹千代の口元がほんの少し緩んだ。
昨日なら、小春はすぐに「笑った」と声を上げていただろう。けれど今日は何も言わず、ただ嬉しくなって笑った。
寺を出て、三人で道を歩く。
日吉丸は相変わらず元気だった。少し先へ走っては何かを見つけ、また戻ってくる。
「見ろ! でかい虫がおる!」
「持ってこなくていい!」
「竹千代、見るか?」
「……少し」
「竹千代も!?」
二人が虫を見に行くのを、小春は苦笑しながら眺めていた。
しばらくして日吉丸がまた先へ走っていき、小春と竹千代だけが少し後ろを歩く形になる。
「元気だね、日吉丸」
「はい」
「竹千代は疲れてない?」
「大丈夫です」
「無理しないでね」
「はい」
そこで会話が途切れ、二人の足音だけが続いた。
「……小春殿」
やがて、竹千代が小さな声で呼んだ。
「ん?」
「小春殿は……寂しい時、どうなさいますか?」
小春は少しだけ目を見開いた。
昨日の竹千代を思い出す。人質として知らない土地へ連れて来られた七歳の子ども。母親とは離れ、父親はすでにいない。泣きそうになっても、それを必死に堪えていた。
「寂しい時?」
「……はい」
「そうだなぁ」
小春は少し考えた。
「私は、家族のこと考えるかな」
「家族……」
「うん。今頃何してるかな、とか。一緒にいた時のこと思い出したり」
「そうすれば、寂しくなくなりますか?」
小春はすぐには答えなかった。少し考えてから、正直に言う。
「なくなるわけじゃないよ」
「…………」
「寂しいものは寂しいし、会いたいものは会いたい」
竹千代が俯く。
「でもね、ちょっとだけましになる」
「……ちょっとだけ?」
「うん」
小春は笑った。
「それに、誰かがそばにいるって思えると安心するかな」
「そばに……」
「本当に隣にいなくてもいいの。自分のことを覚えてくれてる人がいるとか、自分もその人のことを思い出せるとか。それだけでも、ひとりじゃないって思えるでしょ?」
竹千代は黙ってその言葉を聞いていた。
「……ひとりではない」
「うん。だから、寂しくなったら楽しかったこと思い出してみたら?」
「……はい」
竹千代は小さく頷いた。その顔はまだ少し寂しそうだったが、昨日よりほんのわずかに柔らかい。
「何を話しとるんじゃー!」
遠くから日吉丸の声が響いた。
「わっ」
見ると、いつの間にかずいぶん先まで行っていた日吉丸がこちらへ戻ってくる。
「二人で何を話しとった?」
小春は竹千代を見る。竹千代も小春を見て、ほんの一瞬、目が合った。
「内緒」
「……内緒です」
「なんじゃそれ!」
日吉丸が不満そうに声を上げる。
小春と竹千代は顔を見合わせ、今度は竹千代もほんの少しだけ笑った。
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「飯はまだか!」
那古野城へ戻るなり、日吉丸が言った。
「うぬは何をしに来た」
信長が冷たい目を向ける。
「飯を食いに来た!」
「帰れ」
「嫌じゃ!」
「昨日は俺に仕えるのを嫌がったであろう」
「それと飯は別じゃ!」
「何故ぞ」
「腹が減っとるからじゃ!」
「堂々としてんなぁ」
春一が感心したように言う。
「お兄ちゃん、褒めるところ?」
「ここまで来ると逆にな」
小春は少しだけ目を逸らした。
「……私が、たぶんご飯出るって言ったんだけど」
「小春」
信長の低い声が飛ぶ。
「だって、昨日泊まるところ用意したんだから、ご飯くらい――」
「勝手に決めるな」
「じゃあ出ないの?」
「…………」
信長が日吉丸を見る。日吉丸は期待に満ちた目で信長を見ている。
「…………出す」
「やった!」
「うるさい」
こうして、なぜか五人揃って朝餉を囲むことになった。
日吉丸はよく食べた。
「うまい!」
「それ私の!」
「まだあるじゃろ!」
「これは私の分!」
「小春も食い意地張ってるじゃん」
春一が呆れる。
「お兄ちゃんは黙って食べて」
「はいはい」
竹千代は二人のやり取りを見ながら静かに箸を動かしている。けれど、ときどき小さく笑うようになった。そのたびに小春は嬉しくなる。
「竹千代、それ食べないの?」
「これは……少し苦手で」
「じゃあ私が――」
「わしがもらう!」
「日吉丸!」
「早い者勝ちじゃ!」
「人のご飯で早い者勝ちしないの!」
「騒ぐな!」
信長の声が響く。
けれど、その信長自身もどこか楽しそうだった。春一はそれに気づいたが、何も言わなかった。
朝餉のあとも、五人はそのまま一緒に過ごした。城の中を歩き、庭を眺め、日吉丸と小春がくだらないことで競争を始める。竹千代は最初こそ遠慮していたが、少しずつ輪の中へ入っていった。
昨日知り合ったばかりなのに、気づけば五人でいることが不思議ではなくなり始めていた。
夕暮れが近づく頃。
「では、わしは寺へ戻る!」
日吉丸が元気よく言った。
「明日は今川へ行くの?」
小春が尋ねる。
「行く!」
「昨日も聞いたぞ、それ」
春一が言う。
「明日は絶対じゃ!」
「本当かなぁ」
「本当じゃ!」
「日吉丸なら、明日の朝になったらまた飯食いに来そう」
「飯があるなら来る!」
「ほら」
小春が笑う。
竹千代も帰る時間になり、小春へ頭を下げた。
「小春殿。また……」
一瞬、言葉に詰まる。
小春は笑った。
「また明日ね」
「……はい」
竹千代の顔がぱっと明るくなった。
「明日」
信長が口を開き、四人が振り返る。
「連れていきたい場所がある」
「どこ?」
小春が即座に尋ねる。
「来れば分かる」
「またそれかよ」
春一が呆れたように言った。
「教えてくれてもいいじゃん」
「明日になれば分かる」
「気になる!」
「ならば明日も来い」
「行く!」
小春が即答する。
「わしも行く!」
日吉丸も手を上げた。
「飯は?」
「うぬは来るな」
「なんでじゃ!」
竹千代が小さく笑い、春一もつられて笑った。
明日もまた、この五人で会う。
それが五人で過ごす最後の日になるとは、この時はまだ、誰も思っていなかった。




