第3話 十三歳の夢
「……サルのような奴よ」
土埃の向こうで、信長がぽつりと言った。
「こら!」
小春がすぐさま振り返る。
「出会って最初に言うことがそれ!?」
「似ておるではないか」
「どこが!」
「顔が」
「余計悪いわ」
春一も呆れたように口を挟んだ。
すると、地面に倒れていた少年が勢いよく顔を上げる。
「誰がサルじゃ!」
「元気だな」
春一は思わず笑った。
少年はむくりと起き上がると、着物についた土を勢いよく払い始めた。小柄な身体に、日に焼けた顔。着ているものも粗末で、背負っている荷も決して多くはない。
けれど、その目だけは妙に生き生きと輝いていた。
「大丈夫? 怪我してない?」
小春が尋ねる。
「このくらい何ともない!」
「顔、土だらけだけど」
「土くらい洗えば落ちる!」
「前向きだね……」
小春が苦笑する。
信長は少年をじろじろと眺めた。
「うぬ、名は何という」
「日吉丸じゃ」
「日吉丸?」
小春が繰り返す。
「うん。日吉丸!」
少年は胸を張った。
その名を聞いても、春一にも小春にも特別な反応はなかった。ただ、妙に勢いのある少年。今は、それだけだった。
「それで日吉丸、なんでそんな全力で走ってたの?」
「急いどるからじゃ!」
「どこへ?」
「遠江!」
「……遠江?」
小春が首を傾げる。春一も、聞き覚えはあるような、ないような顔をした。
「遠いのか?」
「遠いぞ!」
「そこは自信満々に言うところなのか?」
春一が眉を寄せる。
日吉丸は気にした様子もなく、背負った荷を持ち直した。
「わしは今から今川へ行くんじゃ!」
その言葉に、信長の眉がわずかに動く。
「今川?」
「うん!」
「何をしに行く」
「決まっとる!」
日吉丸は拳を握った。
「侍になるんじゃ!」
「侍?」
小春が目を丸くする。
「侍になるために家を出てきたとこなんさ」
「一人で?」
「そうじゃ」
「危ないよ。まだ子どもなのに」
「もう十三になるから大丈夫じゃ!」
「十三……」
春一は改めて日吉丸を見た。
十三歳。自分たちの感覚なら、まだ中学生くらいだ。それが荷物ひとつ背負って、一人で何日もかかる場所へ行こうとしている。
「この時代の奴、逞しいな……」
「お兄ちゃん、感心してる場合?」
「いや、普通にすごいだろ」
「そうじゃろ!」
日吉丸が嬉しそうに胸を張る。
「褒めてない部分もあるからな」
「なんでそんなに侍になりたいの?」
小春が尋ねると、日吉丸はきょとんとした。
「なんでって……侍はええぞ!」
「どの辺が?」
「格好ええ!」
「そこ?」
「刀を差して、立派な着物を着て、殿様に仕える! 手柄を立てれば偉くなれる!」
夢を語る日吉丸の顔は明るかった。
「それにな」
ふいに、声の調子が少しだけ変わる。
「うちは貧しいんじゃ」
小春が黙る。
日吉丸は前を向いたまま続けた。
「母ちゃんもおる。弟もおる。わしがいつまでも家におっても、腹が膨れるわけでもない」
「弟がいるんだ?」
「うん。わしより三つ小さい」
「そっか……」
「じゃから、侍になって禄をもらえるようになれば、家も少しは楽になるじゃろ」
春一は、さっきまで騒がしかった少年の横顔を見る。
侍になりたい。偉くなりたい。それだけなら、子どもの大きな夢に聞こえる。けれど、その背中にはもう、自分以外の誰かの暮らしまで乗っているらしい。
まだ十三歳なのに。
そう思ったところで、春一は隣を歩く竹千代へ視線を移した。
家族のために、自分から家を出た日吉丸。家族から引き離され、自分では何ひとつ選べなかった竹千代。同じように幼いのに、置かれている場所はまるで違う。
「それに、わしは偉くなりたい!」
日吉丸が突然、明るい声に戻った。
「そっちもあるんだ」
小春が笑う。
「当たり前じゃ!」
日吉丸は両腕を大きく広げた。
「どうせ侍になるなら、どこまでも上へ行きたい!」
春一は小さく笑った。
「欲張りだな、お前」
「悪いか!」
「いや。そのくらいの方がいいんじゃないか」
「じゃろ?」
すぐに得意げになる。その単純さに、小春も笑った。
少し後ろでは、竹千代が日吉丸の話を黙って聞いていた。
「でもさ」
小春が首を傾げる。
「侍になるなら、なんで今川なの?」
「大きいからじゃ!」
即答だった。
「……それだけ?」
「大きいところの方がええに決まっとる!」
日吉丸は当然のように言う。
「今川は強い。領地も広い。侍もようけおる。そんな大きなところなら、わしにも何か仕事があるかもしれん!」
「なるほど……」
小春は妙に納得したように頷いた。
すると、それまで黙っていた信長が口を開いた。
「侍になりたいなら、俺に仕えよ」
「嫌じゃ!」
日吉丸は即答した。
「…………」
信長が止まった。小春も春一も止まり、竹千代まで目を丸くする。日吉丸だけが、何事もなかったように歩いていた。
「……今、嫌って言った?」
小春が恐る恐る確認する。
「言ったぞ」
「信長に?」
「うん」
「こいつ城主だよ?」
「知っとる」
「強いな、お前……」
春一が感心する。
信長のこめかみがぴくりと動いた。
「何故ぞ」
「何が?」
「何故、俺には仕えぬ」
「織田は今川より小さいではないか」
「…………」
今度こそ、信長が完全に黙った。
「日吉丸」
「なんじゃ?」
「それ、本人に言うんだ……」
小春が信長の顔をちらりと見る。明らかに機嫌が悪くなっている。
春一は思わず口元を押さえた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「笑ってる?」
「笑ってない」
「口元」
「気のせいだ」
「春一」
低い声が飛んでくる。
「……ほら、バレた」
「俺に怒るなよ」
春一は肩をすくめた。
「まあ……今川と比べたら、今の織田が小さいってのは間違ってないんだろ?」
「うぬまで申すか」
「だって俺、詳しくないし。今の話だけ聞いたらそうなんだろ?」
「…………」
信長はますます不機嫌そうに口を閉ざした。
日吉丸はそんな信長を見ても、特に怯んだ様子はない。
「大きいところへ行けば、わしも大きくなれる!」
「単純だなぁ」
小春が笑う。
「でも、それだけ真っ直ぐなら何とかなりそうな気もする」
「じゃろ!」
「すぐ調子乗るな」
春一が突っ込んだ。
しばらく歩いているうちに、小春はふと日吉丸の荷へ目を向けた。ずいぶん小さい。
「ねえ、日吉丸」
「なんじゃ?」
「今日、どこまで行くの?」
「行けるところまで」
「泊まるところは?」
「ないぞ」
「…………え?」
小春が足を止め、春一も振り返る。
「ないって?」
「宿なんぞ決めとらん」
「じゃあ今日の夜どうするんだよ」
「その辺で寝ればよい」
「よくない」
春一が即答した。
「なんでじゃ?」
「なんでって……」
「兄ちゃん、この時代なら普通なのかな」
「普通でも、十三歳をその辺に寝かせるのは気になるだろ」
「だよね」
二人に揃って見られ、日吉丸が首を傾げる。
「わしは一人でも平気じゃ!」
「平気でもダメ」
「なんでじゃ!」
「十三だから!」
「もう十三じゃ!」
「まだ十三!」
小春と日吉丸が言い合う。
「小春、お前も大して変わらないからな」
「私は大人!」
「ギリな」
「ギリって何!?」
信長が盛大に溜息を吐いた。
「放っておけばよかろう」
「よくないよ!」
小春が即座に信長へ詰め寄る。
「なんとかならないの?」
「何故、俺が」
「城主なんでしょ?」
「そういう時だけ城主扱いするな」
「だって信長なら何とかできそうだし」
「できるかできぬかではない」
「じゃあ、できるんだ」
「…………」
信長が黙った。
春一も口を挟む。
「せめて今夜だけでも、どこか屋根のあるところないのか?」
「うぬまで」
「野宿する十三歳見つけて、そのまま放っとく方が寝覚め悪いだろ」
「俺には関わりなきことぞ」
「俺は気になる」
「私も」
「…………」
信長はしばらく兄妹を睨んでいたが、やがて面倒そうに息を吐いた。
「……城下の寺へ話を通してやる」
「ほんと!?」
小春の顔がぱっと明るくなる。日吉丸も目を輝かせた。
「よいのか!?」
「うぬのためではない」
「信長、優しいじゃん」
「違う」
「照れてる?」
「違う!」
「小春、怒らせるな」
春一が小春の頭を軽く小突いた。
「痛っ」
「うぬらがうるさいから仕方なくぞ」
信長は不機嫌そうに言う。
「今宵だけ、寺へ置いてやる」
「ありがとな、信長様!」
日吉丸が満面の笑みを浮かべた。
信長はちらりと日吉丸を見る。
「俺に仕える気になったか」
「それとこれとは別じゃ!」
「…………」
小春が吹き出した。春一も今度こそ堪えきれずに笑う。
「お前、ほんと強いな」
「何がじゃ?」
「そのままでいろ」
「よう分からんけど、分かった!」
日吉丸は声を上げて笑った。
竹千代も、そのやり取りを見ながらほんの少しだけ口元を緩める。それを小春は見逃さなかった。
「竹千代、笑った」
「……!」
竹千代が慌てて口元を引き締める。
「いいじゃん。もっと笑って」
「小春、絡むな」
「だって可愛い」
「か、可愛い……」
竹千代が困ったように俯いた。
信長は呆れたように四人を見回す。
「騒がしい奴らを拾ったものよ」
「だから拾われた覚えないって」
春一がすかさず返した。
そうして五人は、再び道を歩き始めた。
先頭を行く信長。その少し後ろを春一が歩き、小春は竹千代の手を取っている。その隣では、日吉丸が相変わらず元気よく喋っていた。
春一は、その背中をぼんやりと眺める。
一日前まで、誰ひとり知らなかった。
信長という名前は知っていた。でも、こんなふうに不機嫌になったり、意地を張ったりする少年だとは知らなかった。竹千代も日吉丸も、名前すら知らなかった。
なのに今は、こうして同じ道を歩いている。
「……妙なことになったな」
春一が呟く。
「何か言った?」
「いや、何でもない」
前では日吉丸がまた何か言って、信長が不機嫌そうに言い返していた。
春一は小さく笑って、その後を追った。




