第2話 七歳の人質
翌朝。
春一は、目を開けるなり小さく息を吐いた。
見慣れない天井。
木の柱。
障子。
畳の匂い。
「……戻ってないか」
一晩眠れば、何事もなかったように自宅のソファで目を覚ます。
そんな淡い期待が、完全に消えた。
「…………ん」
隣で、小春が身じろぎする。
やがて薄く目を開け、ぼんやりと天井を見つめた。
「…………」
数秒。
そして昨日の出来事を思い出したらしい。
「……夢じゃなかった」
「たぶんな」
「わっ!」
すぐ横から声をかけられ、小春がびくりと肩を揺らした。
「起きてたの?」
「少し前にな」
「……やっぱり畳だね」
「一晩寝たらリビングに戻ってるかと思ったんだけどな」
「私も」
二人揃って、小さく息を吐く。
昨日は目を覚ましたら見知らぬ部屋にいて、そこで織田信長と名乗る少年に出会った。
小春は頬を抓られた。菓子も食べた。味もした。
そして結局、行くあてもなければ帰る方法も分からず、信長の好意なのか気まぐれなのか、城の一室を借りて一晩を過ごすことになった。
改めて考えても、意味が分からない。
「……お兄ちゃん」
「何」
「ほんとに戦国時代だったらどうする?」
「朝一番に聞くことじゃないだろ、それ」
「だって気になるじゃん」
「俺だって気になってるよ」
春一はそう答え、ふと部屋の隅へ視線を向けた。
「それより」
「ん?」
「あれ」
小春もそちらを見る。
昨日まではなかったものが置かれていた。
綺麗に畳まれた着物が二組。
「…………」
「…………」
兄妹はしばらく無言でそれを眺めた。
小春が恐る恐る口を開く。
「これ……着ろってことかな」
「だろうな」
「まあ……この格好じゃ目立つもんね」
自分の服を見下ろす。
昨日は突然のことでそこまで考える余裕もなかったが、この場所で現代の服はどう考えても浮いていた。
「誰か置いていったのかな」
「俺たちが寝てる間にな」
「……それ、ちょっと怖いね」
「今さらだろ。知らない城で寝てんだから」
「そうなんだけど」
小春は着物を手に取った。
派手なものではない。
けれど清潔で、普段着としては十分そうだった。
「これ、どうやって着るんだろ」
「…………」
「お兄ちゃん分かる?」
「俺が分かるように見えるか?」
「見えない」
「即答すんな」
小春は自分用に用意されたらしい着物を広げてみる。
「こう……?」
「知らん」
「帯は?」
「知らん」
「お兄ちゃん役に立たないなぁ」
「お前も同じだろ」
結局、しばらく二人で悪戦苦闘した末、様子を見に来た女中に手伝ってもらうことになった。
小春は早々に諦めた。
「お願いします」
春一は最初こそ、自分でやります、と言っていたものの。
しばらくして。
「……すみません。これ、どうするんですか」
結局、教えてもらっていた。
支度を終えると、小春はその場でくるりと一回転した。
「どう?」
「何が」
「似合う?」
「普通」
「もうちょっと何かないの?」
「昨日よりは馴染んでる」
「それ褒めてる?」
小春が唇を尖らせる。
春一はそんな妹を横目に、自分の袖を軽く引いた。
着慣れない。何もかもが、まだ自分のものではないような感覚がする。
ふと、小春が昨日着ていた服へ目を向けた。
今は綺麗に畳み、部屋の隅へ置いてある。
そのそばに、小春のペンケースがあった。
「あっ」
小春は近寄り、それを手に取る。
「それも置いとけよ」
春一が言った。
「えー」
「なくしたらどうすんだ」
「でも、持ってく」
「何に使うんだよ」
「分かんないけど……ペンとかあるし。何か使えるかもしれないじゃん」
そう言って、小春はペンケースを抱える。
昨日まで当たり前のように使っていたもの。
この部屋では、それだけが妙に場違いだった。
「それに」
「ん?」
「これくらい持ってた方が、なんとなく安心する」
小春は笑って、ペンケースを懐へしまった。
春一は少しだけその顔を見てから、何も言わなかった。
「……落とすなよ」
「はーい」
その時、襖が勢いよく開いた。
「支度はできたか」
現れたのは信長だった。
「ノックしなよ!」
反射的に小春が言う。
「のっく?」
「……いや、なんでもない」
小春はすぐに諦めた。
信長は着替えた二人を上から下まで眺める。
「昨日よりはましになったな」
「お兄ちゃんと同じこと言った」
「俺はもう少し言い方柔らかかっただろ」
「どこが」
「うぬらは朝からよく喋るな」
信長は呆れたように言うと、さっさと踵を返した。
「行くぞ」
「どこへ?」
「来れば分かる」
「なにそれ」
「小春。聞くだけ無駄だ」
「お兄ちゃん、もう信長の扱い分かってきたね」
「分かりたくて分かったわけじゃない」
信長が振り返る。
「置いていくぞ」
「はいはい、行きますよ」
「小春」
「なに?」
「城主相手にその返事やめろ」
「お兄ちゃん、昨日もっと失礼だったじゃん」
「俺はいい」
「なんで!?」
言い合いながら、二人は信長の後を追った。
廊下を進み、縁側へ出る。
朝の光が眩しかった。
昨日は混乱していて気づかなかったが、外へ目を向けると、そこに広がる景色は春一の知っているものとはまるで違っていた。
高い建物もない。
電柱もない。
車の音も聞こえない。
聞こえるのは、人の声と鳥の鳴き声。
風に揺れる木々の音。
小春が足を止めた。
「……お兄ちゃん」
「ああ」
春一も同じものを見ていた。
昨日よりさらに、現実味が増していく。
ここは、どこかの撮影所ではない。
少なくとも、自分たちが知っている現代の町ではなかった。
「ほら」
信長が何かを放って寄越す。
「わっ」
小春が慌てて受け取った。
わらじだった。
「……これ履くの?」
「他に何を履く」
「靴ないの?」
「くつ?」
「……ないよね」
春一も自分の分を受け取る。
しばらく眺めてから、恐る恐る足を通した。
「これ……合ってるか?」
「お兄ちゃん、その紐そこ?」
「お前も怪しいぞ」
「信長、これどうするの?」
「その程度も分からぬのか」
「分からないから聞いてるの!」
信長は盛大に溜息を吐いた。
「面倒な奴らよ」
「昨日いきなり拾ったのそっちでしょ」
「拾われた覚えはない」
春一が突っ込む。
そんなやり取りをしながら、どうにかわらじを履く。
信長は二人が支度を終えるのを待つこともなく歩き出した。
「ちょっと、待って!」
小春も慌てて追いかける。
だが、歩きにくい。普段履いている靴とは、まるで感覚が違う。
「信長、足早い!」
「遅いのはうぬぞ」
「慣れてないんだから仕方ないじゃん!」
「小春、足元見ろ」
「見てるよ!」
「前も見ろ」
「どっち!?」
「両方だ!」
春一に言われ、小春はむっとしながら顔を上げる。
その瞬間だった。
「わっ!」
横から、小さな影が飛び出してきた。
避ける間もない。どん、と身体がぶつかる。
「小春!」
春一がすぐに手を伸ばしたが、間に合わない。
小春はそのまま尻もちをついた。
「痛た……」
春一はすぐに駆け寄った。
「大丈夫か?」
「うん。私は平気」
小春は春一の手を借りて身体を起こす。
けれど、自分の痛みより先に、目の前に倒れている小さな子どもへ目を向けた。
「あっ、ごめん!」
青い着物を着た、小さな男の子だった。
年は、どう見てもまだ幼い。
彼も同じように尻もちをつき、驚いたように小春を見上げている。
小春はすぐに少年の前へしゃがみ込んだ。
「大丈夫? どこか痛くない?」
少年は少し迷うようにしてから、小さく頷いた。
「……はい」
小春はほっと息を吐く。
「よかった」
春一も少年の様子を確かめる。
怪我はなさそうだった。
その様子を、信長が少し離れたところから眺めていた。
やがて少年の顔を見て、ふと目を細める。
「……ああ」
「知ってる子?」
小春が振り返る。
信長は何でもないことのように言った。
「売り飛ばされてきた、哀れな奴よ」
「……え?」
少年の顔が、わずかに強張った。
春一の眉間に皺が寄る。
「お前さ」
「なに?」
「本人の前でそういうこと言うなよ」
小春も信長を睨む。
「そうだよ!」
「事実ぞ」
「事実でも言い方ってものがあるだろ」
信長は兄妹を交互に見た。
「うぬらは揃ってうるさいのう」
「誰のせいよ!」
小春はもう一度少年へ向き直った。
まだ少し怯えたような顔をしている。
「ごめんね。こいつ、ほんと口悪いから」
「聞こえておるぞ」
「聞こえるように言ったの」
「小春」
「なに?」
「お前も大概だぞ」
「えっ」
そのやり取りを見ていた少年が、ほんの少しだけ目を瞬かせる。
小春は改めて、少年に笑いかけた。
「私は小春。こっちは兄の春一。あなたは?」
少年は二人を見比べる。
それから、かすかな声で答えた。
「……竹千代、と申します」
「竹千代」
小春はその名を繰り返した。
春一にも、聞き覚えのない名前だった。
ただ、目の前にいるのは、自分たちよりずっと幼い男の子。
それだけだった。
「竹千代は、ここに住んでるの?」
小春が何気なく尋ねると、竹千代の表情がわずかに曇った。
「……いいえ」
「じゃあ、遊びに来てるとか?」
「違う」
答えたのは信長だった。
小春が振り返る。
「こやつは松平家の嫡男ぞ」
「松平家……?」
小春は首を傾げる。
春一も、特に心当たりはない。
信長が続けた。
「本来は今川へ人質として送られるはずであった。それを途中で家臣が裏切り、織田へ売ったのよ」
「……え?」
小春の顔から笑みが消えた。
春一も眉を寄せる。
「今、人質って言ったか?」
「そう申した」
「この子が?」
「他に誰がおる」
春一は竹千代を見る。
どう見ても幼い。
小春も思わず尋ねた。
「竹千代、何歳?」
竹千代は少し俯いたまま答える。
「……七つです」
「七歳……?」
小春が言葉を失った。
春一も、すぐには何も言えなかった。
「七歳で……人質?」
「珍しいことではない」
信長は平然としている。
春一は思わず信長を見る。
「珍しいとか、そういう問題じゃないだろ」
「何が悪い」
「七歳だぞ」
「だから何ぞ」
「いや……」
春一は言葉に詰まった。
ここでは、それが普通なのかもしれない。
家同士の争い。
同盟。
裏切り。
人質。
歴史の授業で聞いたことはある。
けれど、七歳の子どもを目の前にして聞く言葉だとは思っていなかった。
知識として知っていることと、目の前で見ることは、まるで違う。
小春はしゃがんだまま、竹千代の顔を覗き込んだ。
「お父さんとお母さんは……?」
聞いた瞬間、竹千代の肩がほんの少し揺れた。
答えたのは、また信長だった。
「母とは幼い頃に離れたと聞く」
「……お母さんと離れてるの?」
「父も先日死んだ」
「信長!」
小春が思わず声を上げた。
春一も険しい顔で信長を見る。
「お前さ、本人の前で――」
「事実を申しただけぞ」
「だからって!」
小春が言い返しかけて、ふと口を閉じた。
竹千代が俯いていた。小さな手が、着物の裾をぎゅっと握っている。唇も固く結ばれていた。
泣きそうなのだと、春一にもすぐに分かった。
けれど、竹千代は泣かなかった。
まるで、泣いてはいけないと自分に言い聞かせているように。
「…………」
春一は信長に何か言おうとして、やめた。
今は、そっちじゃない。
小春も少し迷ってから、竹千代の前へもう一度しゃがみ込んだ。
「……竹千代」
呼びかける。
竹千代はゆっくり顔を上げた。
目には涙が溜まっている。
それでも、零さない。
小春は何を言えばいいのか分からないようだった。
大丈夫。
そんなことは簡単に言えない。
母親とは離ればなれ。
父親は亡くなっている。
人質として知らない土地へ連れて来られた。
七歳の子に、大丈夫だなんて言えるはずがない。
だから、小春は別のことを口にした。
「私たち、今から信長についていくんだけど」
「殿についていく、ではないのか」
信長が口を挟む。
「今それどうでもいいから」
「どうでもよくはない」
「信長は黙ってて」
「うぬは本当に――」
「信長」
今度は春一が止めた。
「少し黙ってろ」
「…………」
信長の眉がぴくりと動いた。
けれど、春一は構わなかった。
小春はそのまま竹千代へ向き直る。
「竹千代も、一緒に来る?」
「……え?」
「ここに一人でいるより、みんなで歩いた方が楽しいかなって」
そう言って、小春は手を差し出した。
「嫌だったら無理しなくていいよ」
竹千代は、小春の手を見つめた。
すぐには取らなかった。
小春も急かさず、そのまま待つ。
やがて、小さな手が、恐る恐る伸びてきた。
「……よろしいのですか?」
「もちろん」
「私も……一緒に?」
「うん」
竹千代の指が、小春の手に触れる。
小春はその小さな手を、そっと握った。
「じゃあ、一緒に行こう」
「……はい」
竹千代が小さく頷いた。
ほんの少しだけ、強張っていた顔が緩む。
目に溜まっていた涙も、どうにか零れずに済んだようだった。
その様子を見ていた春一も、わずかに表情を和らげる。
「よかったな」
声をかけると、竹千代は春一を見上げた。
「……はい」
「俺は春一。こいつの兄貴」
春一が小春を指す。
「よろしくな」
「よろしくお願いいたします、春一殿」
「そんな畏まらなくていいけどな」
「お兄ちゃん、戦国時代の七歳に無茶言わないの」
「お前もさっきから普通に喋ってるだろ」
「私はいいの」
「なんでだよ」
竹千代が、二人を交互に見る。
その瞳に、ほんの少しだけ不思議そうな色が浮かんだ。
信長が呆れたように息を吐く。
「兄妹揃って騒がしい奴らよ」
「信長にだけは言われたくない」
「なぜぞ」
「昨日から全部あんたが原因だから」
小春が言い返した、その時だった。
遠くから、何か音が聞こえてきた。
どたどたどたどた――。
「……何?」
小春が顔を上げる。
春一も振り返った。
音はどんどん近づいてくる。
誰かが走っている。
しかも、ものすごい勢いで。
「……速くないか?」
「うん」
「こっち来てないか?」
「来てるね」
土を蹴る音。
荒い息遣い。
そして、道の向こうから一人の少年が姿を現した。
小柄な身体。
粗末な着物。
背には小さな荷。
少年は周囲などほとんど見えていないのか、前だけを見て全速力で走ってくる。
「ちょ、危な――」
春一が声を上げた。
小春は竹千代の手を引いて一歩下がる。
信長だけは微動だにしない。
少年はそのまま、一直線にこちらへ向かってきて――。
「わ、わあああっ!」
信長のすぐ目の前で足をもつれさせた。
ずざあっ、と盛大な音を立てて地面へ転がる。
「…………」
「…………」
「…………」
春一、小春、竹千代が揃って目を丸くした。
土埃が舞う。
その中心で、少年がうつ伏せのまま動かない。
小春が恐る恐る声をかける。
「……大丈夫?」
少年の肩が、ぴくりと動いた。
そして。
「だ、大丈夫じゃ!」
勢いよく顔を上げる。
土まみれの顔。
それでも、目だけは妙に生き生きと輝いていた。




