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第1話 十五歳の城主

 春一は、身体の下にある妙な硬さで目を覚ました。


「……ん……」


 薄く目を開ける。


 最初に見えたのは、見慣れない天井だった。


「…………は?」


 瞬きをする。


 もう一度見る。


 やはり、知らない。


 昨夜、自分はリビングのソファで眠ったはずだった。


 それなのに、背中に触れているのはソファではない。


 春一はゆっくりと上体を起こした。


「……畳?」


 視線を落とす。


 間違いなく畳だった。


 周囲を見回す。


 木の柱。

 障子。

 襖。

 低い机。


 壁も、天井も、部屋の匂いさえ、自宅とはまるで違っている。


「……どこだ、ここ」


 眠気が一気に吹き飛んだ。


 春一は立ち上がりかけ――すぐ近くに人影があることに気づいた。


「小春」


 思わず名前を呼ぶ。


 小春は春一から少し離れた畳の上に座り込んでいた。


 服装は昨夜のまま。

 怪我をしている様子もない。


 それを確認した瞬間、春一はわずかに息を吐いた。


「……よかった。お前もいたのか」


「お兄ちゃん」


「大丈夫か? どっか痛いとか――」


「見て」


「何」


 小春が指差した先には、低い机があった。


 その上には、何枚もの紙が置かれている。


「墨だ……」


「…………」


「本当に筆で書いてある。すごい」


 小春は興味津々で一枚に手を伸ばした。


「おい」


「なに?」


「触るな」


「なんで?」


「なんでじゃねぇよ。ここがどこかも分からないんだぞ。人ん家だったらどうすんだ」


「ちょっと見るだけ」


「その“ちょっと”をやめろって」


 春一が止めるより早く、小春の指が紙の端へ触れた。


 その時だった。


「うぬら、何者ぞ」


「ひゃっ!」


 小春が飛び上がる。


 春一も勢いよく声のした方を振り向いた。


 部屋の少し奥。


 そこに、一人の少年がいた。


「…………」


 いつからいた。


 春一は思わず眉を寄せる。


 黒髪。

 鋭い目。

 年は十五、六ほどに見える。


 少年は座ったまま、春一と小春をじっと見ていた。


 驚いているというより、面白いものでも見つけたような顔だった。


「……先に聞くけど」


 春一が口を開く。


「ここ、どこだ?」


 少年の眉がわずかに上がった。


「ここは信長の城ぞ」


「……信長?」


 小春が首を傾げる。


 少年はゆっくりと立ち上がった。


 そして、当然のことを告げるように言う。


「俺が、この那古野城の城主――織田信長ぞ」


「…………」


「…………」


 春一と小春は揃って黙った。


 織田信長。


 昨夜、小春のノートに書かれていた名前だ。


 知らないわけがない。


 歴史に詳しくなくとも、それくらいは知っている。


「……織田、信長?」


 小春が確認するように呟く。


「そう申した」


「……あの織田信長?」


「あの、とは何ぞ」


 小春は春一を見る。


 春一も小春を見る。


「お兄ちゃん」


「……俺に聞くな」


「でも織田信長って」


「分かってる」


 春一は少年をまじまじと見た。


 どう見ても若い。


 教科書やテレビで見る肖像画の印象とは、まるで違う。


「……何歳だ?」


「十五だ。じき十六になる」


「十五?」


「そう申しておろう」


 春一は黙った。


 小春も目を丸くしている。


「十五歳で城主なの?」


「俺はもう元服も済ませておる。妻もおるぞ」


「えっ、結婚してるの!?」


「それがどうした」


「十五で!?」


「じき十六だ」


「そこ大事なんだ……」


 小春が呟く。


 春一は額に手を当てた。


「待て待て待て……」


 状況がおかしい。


 昨夜は確かに自宅にいた。


 小春は日本史の課題をしていた。

 自分はソファで寝た。


 それが今は、知らない和室。


 そして目の前には、自分を織田信長だと名乗る十五歳の少年。


「……夢だろ」


 春一は小さく呟いた。


「だよね?」


 小春がすぐに乗ってくる。


「だってありえないもん。昨日まで家にいたんだよ?」


「ああ」


「じゃあ夢だ」


「……二人で同じ夢見るか?」


「それは……」


 小春が詰まった。


 信長は二人のやり取りを怪訝そうに眺めていた。


「先ほどから、何を申しておる」


「こっちの話」


 小春が答える。


「たぶんこれ、夢だから」


「夢?」


「うん。だからそんなに怖がらなくてもいいかなって」


「小春」


「だって夢なら、打ち首とかもないでしょ」


「打ち首?」


 春一が嫌な単語を拾った。


 信長が不敵に笑う。


「うぬらの着物は見慣れぬ。どこから入り込んだのかも分からぬ。信長が人を呼べば、怪しい者として捕らえられるであろうな」


「ほら、やっぱり脅してるだけだって。夢なんだから――」


 小春が言い終えるより早く、信長がすっと近づいた。


「なに?」


 信長の手が伸びる。


 次の瞬間。


「いだだだだだだっ!」


 小春の悲鳴が部屋に響いた。


 信長が小春の頬を容赦なく抓っていた。


「痛い痛い痛い! 離して!」


「夢から覚めたか?」


「痛いってば!」


「おい!」


 春一が慌てて信長の手を払う。


 解放された小春は、涙目で頬を押さえた。


「いたぁ……」


 くっきり赤くなっている。


 春一はその頬と信長を交互に見る。


「お前、何すんだよ」


「夢か確かめてやっただけぞ」


「抓り方ってもんがあるだろ!」


「夢なら痛くもあるまい」


「それは……そうだけど」


 言い返しかけて、春一は止まった。


 小春も止まった。


 二人で顔を見合わせる。


「…………」


「…………」


 小春が恐る恐る口を開いた。


「……痛かった」


「ああ」


「めちゃくちゃ痛かった」


「見てた」


「じゃあ……夢じゃない?」


「いや、待て」


 春一は自分の腕を抓った。


「…………痛い」


「お兄ちゃん、自分でもやるんだ」


「確認だよ」


「どうだった?」


「痛い」


「じゃあ夢じゃない?」


「だから待てって」


 春一は混乱していた。


 夢でも痛みを感じることはある、と聞いたことがある気がする。


 そもそも、自分と小春が同じ場所にいる時点で、普通の夢とは思えない。


 だが、だからといって本当に戦国時代へ来たなどという結論を、簡単に受け入れられるはずもなかった。


「……撮影とか」


「何の?」


「時代劇」


「私たち、寝てる間に撮影所へ連れてこられたの?」


「……ないな」


「誘拐?」


「誘拐犯が俺たちを時代劇に出演させる意味が分からん」


「だよね」


 二人で黙り込む。


 信長はそんな兄妹をしばらく眺めたあと、低い机のそばへ戻った。


 そこに置かれていた小さな皿から、何かをひとつ摘まむ。


 干した果物のように見えた。


 信長はそれを口へ入れ、何でもないように咀嚼する。


 小春の視線がそちらへ動いた。


「…………」


 信長が気づく。


「食うか?」


「いいの?」


「小春」


 春一が止めるより先に、小春は差し出された菓子へ手を伸ばした。


「いただきます」


「お前な……」


 小春はひと口食べる。


 そして。


「……おいしっ」


 思わず声が漏れた。


 春一は呆れた顔をした。


「何普通に食ってんだよ」


「だって美味しいよ。兄ちゃんも食べる?」


「いらない」


「ほんとに? 甘いよ」


「そういう問題じゃ――」


 春一は途中で言葉を止めた。


 小春も、もぐもぐと口を動かしながら止まる。


「…………」


「…………」


 二人の視線が合った。


 小春が、ごくりと飲み込む。


「お兄ちゃん」


「……何」


「味する」


「…………」


「ちゃんと甘い」


 春一は菓子を見る。


 信長を見る。


 もう一度、菓子を見る。


「……一個くれ」


「さっきいらないって言ったじゃん」


「確認だ」


「はいはい」


 小春が楽しそうに皿を差し出す。


 春一はひとつ取り、慎重に口へ入れた。


 噛む。


 甘い。


 舌触りもある。

 香りもある。

 噛んだ感触も、飲み込んだ感覚も、やけに鮮明だった。


「…………」


「ね?」


「……味するな」


「でしょ?」


 二人は少し身を寄せた。


 信長に聞こえないよう、小声になる。


「こんなリアルな夢ある?」


「知らん」


「痛いし、味するし」


「でも戦国時代ってのもありえないだろ」


「じゃあここどこ?」


「それが分かれば困ってない」


「でもあの子、信長って」


「自称な」


「十五歳で?」


「……そこまで設定作るか?」


「しかも妻いるって」


「そこは今どうでもいい」


「えー、気になる」


「お前、今それ気にしてる場合か?」


「だって――」


「うぬら」


 低い声が割り込んだ。


 二人は同時に顔を上げる。


 信長が頬杖をつきながら、呆れたようにこちらを見ていた。


「先ほどから、何をこそこそ話しておる」


「…………」


「…………」


 春一と小春は再び顔を見合わせた。


 どうやら、夢だと決めつけて済ませられる状況ではなさそうだった。

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