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序章 夜の虹

 その夜、春一はリビングのテーブルに肘をつき、参考書とノートを広げる妹を眺めていた。


 小春は、日本史の課題と格闘していた。


 戦国時代について調べること。


 教科書にも資料集にも、見慣れた名前がいくつも並んでいた。


 織田信長。

 豊臣秀吉。

 徳川家康。


 誰もが知っている、歴史上の偉人たち。


 けれど二人にとって、それはまだ、本の中の名前でしかなかった。


「……織田信長。桶狭間の戦いで今川義元を破る……っと」


 教科書とノートを交互に見ながら、小春はペンを走らせる。


 向かいでは、春一が頬杖をついてその様子を眺めていた。


「それ、教科書丸写しじゃないのか」


「丸写しじゃないよ。ちゃんとまとめてる」


「ほぼ同じじゃん」


「うるさいなぁ。じゃあお兄ちゃん、織田信長について説明してよ」


「なんで俺が」


「口出した責任」


「知らねぇよ」


 春一は呆れたように息を吐き、小春の手元の資料集へ目を落とした。


「織田信長だろ。桶狭間で今川を倒して、天下統一しようとして、本能寺で死んだ」


「雑」


「知ってること言っただけだ」


「じゃあ豊臣秀吉」


「天下統一した」


「徳川家康」


「江戸幕府作った」


「小学生みたいな答え」


「お前に言われたくない」


 小春は思わず笑った。


 春一も、別に歴史に詳しいわけではない。

 小春だって同じだった。


 信長、秀吉、家康。


 名前は知っている。

 何をした人物なのかも、大まかには知っている。


 けれど、それだけだ。


 何年に何が起きたとか。

 誰がどの戦で勝ったとか。


 学校で習う、知識のひとつ。


 その人たちがどんな声で笑い、何に腹を立て、何を恐れ、何を願っていたのか。


 そんなことまで、考えたことはなかった。


「まあ、頑張れ」


 春一はそう言って立ち上がった。


「手伝ってくれないの?」


「十分手伝っただろ」


「どこが」


「話し相手」


「いらない」


「じゃあ静かにしてやるよ」


 春一はテーブルを離れ、少し離れたソファへ腰を下ろした。


 小春は再びノートへ向き直る。


「……えっと、次は……」


 文字を追う。


 けれど、さっきからどうにも瞼が重い。


 ペンを握ったまま、何度か瞬きをした。


「……眠い」


「寝ろよ」


 ソファから春一の声が飛んでくる。


「あとちょっと……」


「それ言う奴、大体寝るぞ」


「寝ないし……」


 そう返しながら、小春は小さく欠伸をした。


 春一はそれ以上何も言わなかった。


 ソファの背にもたれ、ぼんやりと天井を見上げる。


 春一も眠かった。


 ふと、窓の方へ視線を向ける。


 カーテンが、少しだけ開いている。


 その隙間から覗く夜空に、淡い光が浮かんでいた。


「……?」


 春一は目を細める。


 虹。


 そう見えた。


 けれど、外はもうすっかり夜だった。


「……夜に虹って出るのか?」


「んー……?」


 小春が眠そうに顔を上げる。


「いや。なんでもない」


 春一はもう一度、窓を見る。


 淡い光は、まだそこにあった。


 妙だとは思った。


 けれど、それ以上確かめるほどの気力も残っていなかった。


 春一はゆっくりと目を閉じた。


 ほどなくして、小春の手からペンが落ち、テーブルの上を転がった。


 ノートには、書きかけの文字が残っている。


 織田信長。

 豊臣秀吉。

 徳川家康。


 名前なら、二人とも知っていた。


 けれど、その名を持つ者たちが、どんな人間なのか。


 春一も小春も、まだ何も知らなかった。


 同じ夜。


 那古野城では、ひとりの少年が退屈そうに空を見上げていた。


 織田信長。


 すでに元服を済ませ、城主という立場にある少年。


 周りの大人たちは、ああしろ、こうしろとうるさい。


 若君らしくあれ。

 織田の者らしくあれ。

 家を背負う者として振る舞え。


 けれど信長には、そのすべてがひどく古く、窮屈に思えた。


 誰もが当たり前のように従うものを、信長は当たり前だとは思えない。


 決められた形。

 古びた作法。

 家の名に縛られ、身分に縛られ、誰もが同じように頭を下げる。


 つまらぬ。


 そう思った。


 ふと、夜空に奇妙な光が見えた。


 虹だった。


 夜なのに、虹がかかっている。


 信長はしばらくそれを見つめ、それから不敵に笑った。


「面白い」


 他の者なら、不吉だと騒ぐかもしれない。

 祈祷だの、吉兆だの、凶兆だのと意味を探すかもしれない。


 だが、信長はただ笑った。


 世にはまだ、知らぬものがある。

 見たことのないものがある。


 ならば、退屈ばかりでもないのかもしれない。


 夜の虹を見上げながら、信長は口元を緩めた。


 同じ夜。


 尾張の片隅で、ひとりの少年が寝返りを打った。


 日吉丸。


 まだ、何者でもない少年だった。


 家柄もない。

 金もない。

 後ろ盾もない。


 けれど、胸の奥にはずっと消えないものがあった。


 侍になりたい。


 いつか、侍になる。


 土にまみれて終わるのではなく、誰かに使われるだけで終わるのでもなく、自分の足でどこまでも上がっていきたい。


 そう思っていた。


 だが、いつ出るのか。

 どこへ行くのか。

 本当に自分のような者が侍になれるのか。


 考えれば考えるほど、答えは出なかった。


「……眠れん」


 日吉丸は小さく呟き、むくりと起き上がった。


 外へ出ると、夜風が頬を撫でた。


 静かな夜だった。

 虫の声だけが、遠くで細く鳴いている。


 何気なく顔を上げた日吉丸は、そこで目を丸くした。


 夜の空に、淡い虹がかかっていた。


「……虹?」


 昼でもない。

 雨上がりでもない。


 それなのに、空には確かに虹がある。


 しばらく見上げていた日吉丸は、やがてぱっと笑った。


「夜に虹とは、変わっとるなあ」


 不吉だとは思わなかった。


 むしろ、胸の奥が急に熱くなった。


 これは、きっと吉兆だ。


 今だ。

 今、行けということだ。


「……そうじゃ」


 日吉丸は振り返った。


 まだ荷物などまとめていない。

 どこへ向かうかも、はっきり決めたわけではない。


 それでも、足が勝手に前へ出そうだった。


「わしは、侍になるんじゃ」


 誰に聞かせるでもなく、日吉丸はそう呟いた。


 今川領へ行こう。遠江へ。


 大きなところへ行けば、きっと何かが変わる。


 何も持っていない。


 だからこそ、何にでもなれる気がした。


 日吉丸は急いで戻り、小さな荷をまとめた。


 粗末な着物。

 わずかな食べ物。


 それから、どうしても捨てられなかった夢だけを抱えて。


 もう一度、外へ出る。


 夜の虹は、まだ空にかかっていた。


「見とれよ」


 日吉丸は笑った。


「わしは、いつか侍になるんじゃ」


 まだ歴史に名を刻んでいない少年は、その思いだけを頼りに、夜の道へ足を踏み出した。


 同じ夜。


 竹千代は、知らぬ屋敷の一室で膝を抱えていた。


 今川へ行くはずだった。


 そう聞かされていた。


 だが、途中で何かが変わった。


 大人たちの声が荒くなり、進む道が変わり、気づけば竹千代は織田へ連れて来られていた。


 裏切り。


 誰かがそう言っていた。


 その意味を、幼い竹千代はすべて理解できたわけではない。


 ただ、自分が望まれてここにいるのではないことだけはわかった。


 母はいない。

 父は、もういない。


 どこへ行くのか。

 誰のもとへ置かれるのか。

 いつ帰れるのか。


 何ひとつ、竹千代には選べなかった。


「泣いてはならぬ」


 そう言われていた。


 松平の子だから。

 嫡男だから。

 人質であっても、弱いところを見せてはならないから。


 泣いてはならないと思うほど、胸の奥が苦しくなった。


 ふと、格子の向こうに淡い光が見えた。


 夜の空に、虹がかかっている。


 綺麗だと思うより先に、竹千代は膝を抱く腕に力を込めた。


 母に会いたかった。


 それが叶わないのなら、知らない誰かでもよかった。


 ひとりではないのだと、言ってほしかった。


 けれど、声は出なかった。


 夜の虹は、ただ静かに空へかかっていた。


 現代の空にも。

 戦国の空にも。


 まだ、誰も知らない。


 ひと組の兄妹が、時を越えて乱世へ落ちることを。


 退屈を嫌った少年が、やがて乱世の流れを打ち破ることを。


 何も持たなかった少年が、天下へ駆け上がることを。


 そして、泣くことすら許されなかった幼い子どもが、長い長い時を越え、泰平の世を築く者になることを。


 すべてはまだ、始まってもいない。


 ただ、夜の虹だけが。


 彼らの上に、淡く輝いていた。

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