第9話:夜の深淵
能勢の廃寺から戻ったその夜、俺の部屋は静まり返っていた。
山の冷気と、あの忌まわしい白粉の匂いが、まだ肌の奥にこびりついているような錯覚に囚われる。
怨念の正体は、昭和初期に陵辱され、井戸へと投げ込まれた女装の娼婦。
そしてその歪んだ怨念は今、黒田の肉体を乗っ取り、完全な存在として現世に留まろうとしている。
「修司さん……」
静寂を破ったのは、玲奈の声だった。
彼女は薄手のシルクのガウンを纏い、裸足のまま書斎のドアの前に立っていた。
その瞳は大きく見開かれ、酷く怯えた色と、狂気的な情念が混ざり合っていた。
「どうした、玲奈。まだ起きていたのか」
俺が問いかけると、彼女は吸い寄せられるように歩み寄り、俺の膝元に崩れ落ちた。
「怖いんです……黒田さんの顔が、頭から離れません……。あの人はもう、黒田さんじゃない……」
玲奈は俺の太ももにしがみつき、激しく体を震わせた。
「あの異様な空気……あの怨霊は、黒田さんの肉体を使って、男たちを……そして修司さんを狙っている……」
「俺を?」
俺は冷徹な眼差しで玲奈を見下ろした。
「ええ……私には分かります。あの怨霊は、修司さんのような理知的で、少し冷酷な匂いのする…そんな男に惹かれている……。修司さんを奪われてしまう……」
玲奈の呼吸が荒くなり、その手は俺の腰へ、そして胸元へと這い上がってくる。
心理カウンセラーとしての冷徹な観察眼と、俺という男に対する異常なまでの執着。その二つが彼女の中で激しくぶつかり合っていた。
「修司さん……お願いです。私を……壊してください……」
玲奈は涙を浮かべ、すがるような目で見上げてきた。
「修司さんで、私の頭の中を塗りつぶしてください……! そうじゃなきゃ、…私が…狂ってしまいます……!」
俺は玲奈を掴み、そのままベッドへと押し倒した。
「あぁっ……!」
快楽と恐怖の交ざった短い悲鳴をあげる。
俺は彼女の細い顎を強く指で挟み込み、見下ろした。
「嫉妬か、玲奈。相手は怨霊だぞ?」
「……違います……っ。私は……あなたのものだって……確かめたいだけ……だから印を残して下さい」
「余計なことは考えなくていい」
夜の暗闇の中、冷酷で支配的な愛撫が玲奈の肉体を苛む。
玲奈にせがまれて激しく欲望をぶつける。
皮膚に赤い痕が刻まれるたび、玲奈は恍惚とした表情で受け入れ、より深く、激しく喘いでいた。
何度目かの絶頂の果て…
俺の腕の中で荒い息を吐く玲奈の髪を撫でながら、思考を巡らせる。
黒田の異変は玲奈の精神にも、深く影響を与えている気がする…アノ事件から玲奈は、あの手の者に精神が巻き込まれやすくなっているのかもしれない…
今は満足げに眠っている、玲奈を見つめた。
黒田の肉体は変質し、その精神は「美しきニューハーフ」としての歓喜に侵食されている。
だが、あの怪異が求めているのは、単なる無差別な殺戮ではない気がする。
かつて自分を虐殺した「男たち」への復讐。そして、己の美を認めさせるための犠牲。
「……黒田。お前がどれほど化け物になろうと、俺は冷静にお前を追い詰める」
窓の外では、阪北の街を包む闇が、より一層深さを増していた。
惨劇の第2幕は…すぐそこまで迫っていた。




