第8話:能勢の封印
豊中のアパートから姿を消した黒田の行方は、再び知れなくなった。
だが、俺の頭脳は立ち止まらない。
豊中、尼崎、川西、池田、箕面。被害者の発生現場と、古美術商の村井の足跡、そして黒田が残した言動の断片。それらを繋ぎ合わせると、一つの地理的・歴史的交点が浮かび上がってきた。
大阪府の最北端——能勢町。
山々に囲まれたその地は、古くから霊山として知られ、幾重もの民間信仰や忌み嫌われた歴史が眠る場所だった。
「修司、能勢の山中にある廃寺の記録が見つかったぞ」
中垣内さんから電話が入ったのは、翌朝のことだった。
「昭和の初期……戦前の混乱期にな、あそこには人目を忍んで異形の者や、社会から弾かれた者たちが集まる密かな『籠もり堂』があったそうだ」
「籠もり堂……?」
「ああ。そこである時、凄惨なリンチ殺人事件が起きたそうだ…。客の男たちとトラブルになった『女装の娼婦』が、全身の水分を絞り取られるような拷問を受け、顔に無理やり化粧を塗られた挙句、生きたまま井戸に投げ込まれたらしい」
繋がった。
干からびた遺体。狂気じみた化粧。甘ったるい古い白粉の匂い。そして、男の身体を持ちながら女として生き、男たちへの強い憎悪と執着を抱いた怨念。
「その廃寺の場所は分かりますか、中垣内さん」
「ああ。地元の古老に聞き出した。……俺も行く」
俺は中垣内さんと合流し、能勢の深い山道へと車を走らせた。
標高が上がるにつれ、下界の喧騒は遠のき、鬱蒼とした杉林が視界を遮る。
車のナビゲーションシステムは途中で途切れ、途切れ途切れの細い砂利道を頼りに奥へと進む。
やがて、苔むした鳥居と、崩れかけた山門が見えてきた。
「ここだな……」
車を降りると、山の冷気とともに、あの強烈な白粉の匂いが鼻を突いた。下界で嗅いだものとは比較にならないほど濃密で、ねっとりと肺にへばりつくような匂いだ。
荒れ果てた境内には、雑草が茂り、倒壊しかけた本堂が寒々と佇んでいる。
俺と中垣内さんは慎重に足を踏み入れ、敷地の奥にある古びた井戸へと向かった。
井戸の周りには、太い注連縄が張り巡らされていたが、それは無惨にも断ち切られていた。
「誰かが……封印を解いたんだな」
中垣内さんが低い声で呟く。
俺は井戸の縁に歩み寄り、懐中電灯で底を照らした。
深い闇の底には、水などないはずなのに、バシャバシャと水跳ねの音が響いていた。
そして、井戸の壁面には、狂気じみた手形がいくつも残されていた。
爪で彫られたような、無数の深い傷跡。
「古美術商の村井が、ここからあの鏡を持ち出したのかもしれないな……」
俺が呟いたその時——
井戸の底から、あの甲高い、美しくも禍々しい歌声が響き渡った。
『……恋しや、愛しや、男たち……
……私を殺した、怨しい人たち……』
歌声は山全体にこだまし、杉の木々が激しくざわめき始める。
「くっ……何だ、この圧迫感は……!」
中垣内さんが頭を押さえて膝をつく。
俺は冷静さを保ちながら、井戸の底を見つめ続けた。
歌声とともに、井戸の中から立ち上ってきたのは、赤く染まった霧だった。
その霧の奥に、俺には見えた。
怨念の核——昭和の闇に葬られた
哀しくも醜悪な「女」の姿が。
そして、その怨念は今、能勢の山を越え、黒田という完璧な肉体を得て、解き放たれようとしている。
「黒田はここへ来る……全ての決着をつけるために」
俺はポケットの中のカメラを強く握りしめた。
怨霊の悲劇的な過去と、黒田の変容。
この恐怖の輪舞を止める術を、俺は必ず見つけ出さなければならなかった。




