第7話:異変
箕面の滝での遭遇から二日後。
俺は自室で、拾い上げた黒田の皮のブレスレットを見つめていた。
使い込まれて角が丸くなったその革からは、かつてあいつが纏っていた男臭い汗の匂いはすっかり消え失せ、代わりにあの甘ったるい白粉の匂いが染みついていた。
「修司さん……お電話です。中垣内さんから……」
玲奈が静かに受話器を運んできた。
彼女の顔色は冴えない。黒田の変貌と、この事件の禍々しさを肌で感じ取っているのだろう。
俺は受話器を受け取り、耳にあてた。
「中垣内さんか。何か進展は?」
『……修司、黒田が見つかった』
中垣内さんの声は、困惑と重苦しさに満ちていた。
『豊中の自宅アパートに戻っていた。……だが、様子が完全におかしい。警察官を派遣して事情を聴こうとしたが、精神に異常をきたしていると判断せざるを得ん。……一度、お前が直接会ってみてくれるか』
「わかりました。すぐに行きます」
俺は通話を切ると、ジャケットを羽織った。
「修司さん……私も行きます」
玲奈が俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。その瞳には不安と、俺から離れたくないという強い想いが宿っている。
「…分かった。ただし、俺の後ろから離れるなよ」
「はい……!」
俺たちは車を走らせ、豊中の住宅街にある黒田のアパートへと向かった。
アパートの部屋の前に立つと、扉の隙間からあの甘く腐敗したような白粉の香りが漏れ出ていた。
鍵が開いている扉を静かに押し開ける。
「黒田……いるのか?」
俺が声をかけながら踏み込むと、散らかった室内の奥、姿見の前に座り込む背中が見えた。
ガッチリとした大きな背中。
だが、その背中はゆったりとしたシルクのガウンを羽織り、肩をキュッとすぼめている。
「……あら、修司。いらっしゃい」
振り返った黒田を見て、玲奈が小さく悲鳴を上げた。
黒田の顔には、素人目にも分かるほど丁寧に化粧が施されていた。
眉は細くしなやかに描かれ、目元には紅が挿され、厚い唇には濡れたような真っ赤な口紅。
大柄で男らしかった骨格はそのままだというのに、その立ち振る舞い、首の傾げ方、目線の投げ方は、完全に「艶やかな女」のそれだった。
「黒田……お前、その格好はなんだ」
俺が冷たく問いかけると、黒田は自分の頬に手を当て、うっとりとほほ笑んだ。
「何言ってるのよ、修司ったら。……ねえ、綺麗でしょう? 今までの俺……ううん、『私』はね、ずっと間違っていたの」
黒田はしなやかな動作で立ち上がり、俺たちへと一歩歩み寄った。
「男らしくいなきゃいけないって、自分を縛りつけてたのよ。でもね……目覚めちゃったの。私の中の、本当の『美しさ』にね」
その声は黒田のものだが、声音の端々に混ざる甘ったるい嬌声が、吐き気を催すほどの違和感を放っている。
「黒田さん……ダメです、思い出してください! あなたは黒田慎一さんです!」
玲奈が必死に叫んだ。
しかし、黒田は玲奈を一瞥すると、クスッと可笑しそうに鼻で笑った。
「あら……地味な女ね。修司、こんな女のどこがいいの? 男のアンタの力強さも、理知的な頭脳も……私みたいな『極上の女』にこそ似合っているわ」
黒田は俺の胸元に指先を這わせ、濡れた瞳で俺を見上げてきた。
かつての相棒だった男の身体から放たれる、狂気の異性としてのフェロモン。
俺は冷徹な目でその指先を見下ろし、容赦なくその手首を掴み上げた。
「……調子に乗るなよ、怨霊」
指骨が鳴るほど強く握りしめる。
黒田は「あぁんっ……!」と痛みと快楽が混ざったような悲鳴をあげた。
「痛いわ……修司……でも、そんな乱暴なところもステキ……」
その瞳に宿っているのは、もはや狂気だけではない。
黒田自身の肉体が、怨霊の性と混ざり合い、「ニューハーフ」としての快楽に完全に目覚めつつある証拠だった。
黒田は俺の手を振り払うと、翻るガウンとともにアパートのベランダへと躍り出た。
「探さないでね、修司。……次に会う時は、もっとステキな私を見せてあげるわ……!」
黒田は二階のベランダから軽やかに飛び降り、夕闇の豊中の街へと消えていった。
残された部屋には、濃密な白粉の匂いと、壊れてしまった相棒の残骸だけが漂っていた。




