第6話:箕面の滝の呻き
黒田が店を飛び出してから三日。彼とは連絡が取れない状態が続いていた。
そんな折り、中垣内さんから緊急の連絡が入った。
今度は、箕面市で失踪事件が発生したという。
俺はすぐに愛車を走らせ、箕面の大滝へと向かった。
青々と茂る新緑の紅葉に包まれた観光道は、平日の夕刻ということもあり、人影もまばらだった。
滝に近づくにつれ、轟々と響く水音が耳を打つ。
だが、その激しい水音の奥から、例の狂おしい匂いが風に乗って漂ってきた。
白粉の甘さと、生臭い水の匂いだ。
現場である滝壺の近くにたどり着くと、中垣内さんが厳しい表情で立ち尽くしていた。
「中垣内さん。状況は?」
俺が声をかけると、彼は振り向き、低く掠れた声で答えた。
「観光客の男性が一瞬で消えた。滝の写真を撮っていたらしいんだが……カメラと、濡れた服だけが残されていた」
俺は地面に置かれた一眼レフカメラと、水浸しの服に目をやった。
やはり、今までの現場と同じ状況だ。
「……それに、修司。これを見ろ」
中垣内さんは、滝壺の脇にあるぬかるみを指差した。
そこには、濡れた足跡が残されていた。
被害者のものではない。
細く、小さい、女性のような素足の跡……。
そして、そのすぐ隣には、大柄な男性の靴跡が並んで奥の院へと続いていた。
「この靴跡のサイズとパターン……黒田の履いていたものと同じです…ね」
俺は冷酷なまでに冷静に、足跡を分析した。
「黒田が……ここにいたというのか。あいつが事件に関わっているとでも言う気か、修司?」
中垣内さんの目が鋭く光る。
「分かりません。ですが、黒田がこの怪異に深く惹きつけられているのは、確かなんです」
俺は靴跡が続く滝の奥、薄暗い山道へと視線を向けた。
「俺は奥を調べてみます。中垣内さんはここで警戒を」
「おい、修司! 危険だぞ!」
中垣内さんの制止を振り切り、俺はひとり、暗い山道へと足を踏み入れかけた。
その時——
滝壺の暗がりから、ひゅっと冷たい風が吹き抜けた。
『……あぁん……寂しいのよ……男たちは、みんな私を捨てていく……』
風の音に混じり、耳元でねっとりと濡れた女の声が聞こえた。
それは人間の声ではない。怨念そのものが直接脳内に響いてくるような、頭痛を伴う呻きだった。
俺はカメラのフラッシュを焚き、暗闇を照らした。
一瞬、白い光の中に浮かび上がったのは——
岩陰に佇む、男とも女ともつかぬ怪しい人影。
いや、あれは黒田だ。
大柄な体躯でありながら、肩をすぼめ、着物の帯を締めるような動作で腰をくねらせている。
「黒田!!」
俺が叫ぶと、黒田はゆっくりとこちらへ振り返った。
暗がりの中で露わになったその顔には、闇よりも濃い白粉が塗りたくられ、口紅はまるで血を舐めたかのように真っ赤に濡れていた。
その瞳は黒田のものではなく、底知れぬ狂気と怨念に満ちている。
「……修司……? ううん……いい男……」
黒田は、甲高い女の声で妖しく微笑んだ。
「あんたも……私を抱いてくれるの……? それとも、あの男たちみたいに殺すの……?」
「目を覚ませ、黒田! お前はフリーライターの黒田慎一だ!」
俺が駆け寄ろうとした瞬間、滝壺の水面が激しく跳ね上がった。
バシャアアアン!!
大量の飛沫が視界を遮り、激しい甘い匂いが俺の鼻と目を襲った。
「くっ……!」
俺が腕で顔を覆い、数秒後に目を開けた時には——
そこに黒田の姿はなかった。
ただ、濡れた岩の上に、黒田がいつも身につけていた無骨な皮のブレスレットだけが、ポツンと残されていた。
俺はそのブレスレットを拾い上げ、強く握りしめた。
怨霊は、確実に黒田の肉体と精神を乗っ取りつつある。
箕面の冷たい水音が、まるで怨霊のあざ笑う高笑いのように、いつまでも山々にこだましていた。




