第5話:呪縛の萌芽
池田の調査から一夜が明けた。
俺は自室の書斎で、昨夜撮影した現場の写真をパソコンの画面に映し出していた。
あの不気味な鏡。そして、干からびた古美術商の遺体。
いくら静止画を拡大してみても、怪異の正体を示す決定的な証拠は映っていない。だが、俺の頭脳は冷静に警鐘を鳴らし続けていた。
「修司さん……お茶が入りましたよ」
静かな声とともに、玲奈が湯気の立つカップをトレーに乗せて入ってきた。
「ありがとう、玲奈」
俺は画面から目を離し、差し出されたカップを受け取った。
玲奈は俺の隣にそっと寄り添い、画面に映る写真に視線を落とした。その瞬間、彼女の細い肩がピクッと跳ねる。
「……修司さん、これ……」
「池田の被害者の家だ。昨日、黒田と行ってきた」
玲奈は小さく息を呑み、胸元に手を当てた。
「黒田さんの……変化は、進んでいますか?」
彼女の問いに、俺は静かに首をうなずかせた。
「ああ。昨夜、一瞬だが黒田の口調と仕草が完全に女のものになった。本人は自覚がないようだがな」
玲奈は悲しげに目を伏せ、俺の手の上に自分の手を重ねてきた。
「やっぱり……私の予感は当たっていたんですね。心理カウンセラーとして、たくさんの人の心を見てきましたけれど……今の黒田さんは、精神が『誰か』に上書きされようとしています」
「上書き、だと?」
俺が尋ねると、玲奈は真剣な眼差しで俺を見つめ返した。
「ええ。単なる多重人格や精神疾患ではありません。外から侵入してきた強力な『感情』が、黒田さんの本来の人格を押し潰そうとしているんです。……それも、恐ろしいほどの執着と、歪んだ美意識を持った感情です」
「執着と美意識……」
俺は昨夜見た、鏡の中の黒田の姿を思い出した。あの艶めかしい笑み。
「修司さん。黒田さんを……助けてあげてください。でも……」
玲奈は急に言葉を詰まらせ、俺の腕にしがみついてきた。
その体は微かに震えており、彼女の瞳には強い恐怖と、それ以上に深い俺への依存が滲み出ていた。
「修司さんまでどこかへ行ってしまったら……私、おかしくなってしまいます。お願いです、私を置いていかないで……痛いくらい、強く抱きしめて……私を縛りつけてください……」
感情を抑えきれなくなった玲奈は、俺の胸に顔を埋めて懇願した。
俺はそんな彼女の髪を撫で、少し強めに身体を引き寄せた。
「玲奈を…捨てたりはしないよ」
「あ……っ……」
玲奈の口から恍惚とした吐息が漏れる。
怯える玲奈をなだめた後、俺は黒田を呼び出した。
場所は豊中市内にある、俺がよく使う静かな喫茶店だ。
「おう、修司! どうしたんだ急に呼び出したりして」
現れた黒田は、一見するといつも通りの豪快な男に見えた。
だが、席に着く動作、ハンカチで汗を拭う指先、そして——
「……黒田、その匂いはなんだ?」
俺が指摘すると、黒田はビクッと体を強張らせた。
彼からは、昨夜の鏡の部屋で漂っていたあの古臭い白粉と、甘い香水の匂いが微かに漂っていた。
「え? あ……ああ、これか? いやさ、なんか最近、加齢臭とか気になり始めちゃってさ! ちょっとレディースのボディミストってやつを試してみたんだよ! ハハハ!」
黒田は頭を掻いて笑ったが、その笑顔はどこかぎこちない。
「黒田。何か隠していないか? 体調はどうなんだ」
俺が真っ直ぐに見つめると、黒田は困ったように視線を泳がせた。
「隠すも何も……本当に平気だって。ただ……」
「ただ?」
黒田は声を潜め、不安そうに俺に顔を近づけた。
「……夜、夢を見るんだよ。自分がすごく綺麗な着物を着て、男たちに囲まれて踊ってる夢だ。それがさ……悪夢のはずなのに、めちゃくちゃ気持ちいいんだよな……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走る。
「黒田、しばらく調査からは外れろ。病院へ行くか、玲奈のカウンセリングを受けろ」
俺が少し強い口調で言うとと、黒田は急に顔を歪めた。
「なんでだよ! 俺は平気だって言ってるだろ!」
立ち上がった黒田の目には、いつもの陽気な相棒の面影はなく、どこか狂気めいた鋭い光が宿っていた。
「俺は……俺はもっと知りたいんだ。あの綺麗で、哀しくて、愛おしい世界をさ……!」
「黒田……!」
黒田は俺の制止を振り切り、逃げるように店を飛び出していった。
去っていく彼の後ろ姿は、昨日よりも一層、華奢でしなやかなラインを描いているように見えた。
怨霊の呪縛は、着実に芽を吹き、その根を黒田の魂へと伸ばしていた。




