第4話:面影の辻
池田市の古い住宅街は、阪急宝塚線の線路を少し離れると、途端に密やかな静寂に包まれる。
殺害された古美術商・村井の自宅兼店舗は、坂道を登りきった路地の奥にひっそりと佇んでいた。
築百年は下らないであろう木造の屋敷だ。
警察の鑑識は一通り終わっているはずだが、敷地内には重苦しい湿気が立ち込めている。
俺と黒田は、中垣内さんから借りた鍵を使って敷地内へと足を踏み入れた。
玄関の引き戸を開けると、ギギ……と不快な摩擦音が響く。
「……うわっ、埃っぽいな。骨董屋ってのはどこもこんな感じなのか?」
黒田が鼻をうごめかせながら言った。
「気をつけろよ、黒田。何が残っているかわからない」
俺はポケットから小型の懐中電灯を取り出し、奥へと続く暗い廊下を照らした。
足を進めるたび、軋む床板。
空気は冷たく、そして……やはりあの匂いがした。
昭和の古い白粉と、濡れた髪が腐敗したような、甘く重い匂いだ。
「修司、奥に蔵があるぞ」
黒田が廊下の突き当りを指差した。
重厚な土蔵の扉が、わずかに開いている。
俺たちは吸い寄せられるようにして、その暗がりへと足を踏み入れた。
蔵の中には、掛軸や壺、古びた家具が無造作に積み上げられていた。
村井がどのようなルートでこれらを集めていたのかは分からないが、どれも独特の「負の気配」を纏っている。
俺が懐中電灯の光を壁際に向けた、その時だった。
カサ……と、暗闇の奥で衣擦れの音が聞こえた。
「誰だ!?」
俺は咄嗟に光を音の方向へ向けた。
光の輪の中に浮かび上がったのは、巨大な一面の姿見(鏡)だった。
木製のフレームには精巧な彫刻が施されているが、鏡面は黒く濁り、底知れぬ深淵を思わせる。
その鏡の中に、立っていた。
豪快で男らしいはずの黒田が。
だが、鏡に映る黒田の影は、明らかに異質だった。
肩幅は華奢にすぼまり、背筋はしなやかにしなり、その顔立ちには——濃密な白粉と、濡れたような真っ赤な口紅が塗りたくられていた。
鏡の中の「黒田」が、艶めかしく口元を歪めて微笑む。
「……っ!?」
俺は息を呑み、すぐ隣にいる本物の黒田を見た。
黒田は懐中電灯の光も気にせず、ふらふらと鏡の前へと歩み寄っていた。
「黒田! 立つな、見るな!」
俺は叫び、黒田の腕を掴もうとした。
しかし、黒田はそれをすんなりと交わした。
その身のこなしは恐ろしいほどにしなやかで、まるで踊り子のように滑らかだった。
「……綺麗だ……」
黒田がうっとりとした声で呟く。
「こんなにも……美しい……どうして今まで、気づかなかったのかしら……」
「な……『かしら』だと!?」
俺の背筋に、氷のような戦慄が走った。
黒田の声だ。間違いなく黒田の声なのだが、イントネーションと仕草が完全に「女」のそれだった。
黒田は鏡にそっと指先を触れさせた。
その爪は、いつの間にかうっすらと赤く色づいているように見えた。
「黒田慎一!!」
俺は黒田の胸ぐらを掴み、力任せに鏡から引き剥がした。
「ハッ……!?」
床に倒れ込んだ黒田は、荒い息を吐きながら俺を見上げた。
「しゅ、修司……? 俺、一体……」
「お前、今……自分が何をしていたか分かっているのか?」
俺が問い詰めると、黒田は困惑したように頭を押さえた。
「いや……なんか、もの凄く甘くていい匂いがしてさ。懐かしいような、胸が締め付けられるような……気づいたら、あそこに立ってた……」
その顔つきは、いつもの無骨な黒田に戻っていた。
だが、俺の手元に残った彼のジャケットの感触は、どこか頼りなく細くなっている気がした。
俺は鏡に目を向けた。
濁った鏡面には、ただ俺と黒田の姿だけが映っている。
「……ここを出るぞ。長居は無用だ」
俺は黒田を無理やり立たせ、逃げるように村井の屋敷を後にした。古い家屋の住宅街を抜け駅へ向かって下る。
夕闇が迫る池田の街並みを歩きながら、俺は嫌な冷や汗が止まらなかった。
村井の蔵にあったあの鏡。
そして、黒田を蝕みつつある、何か…。
それは確実に、黒田の精神と肉体を内側から書き換えようとしている様に感じていた…




