第3話:猪名川の漂着体
豊中から車を走らせること三十分。
俺と黒田は、川西市を流れる猪名川の河川敷へと到着した。
現場周辺には黄色い規制線が張られ、パトカーの赤色灯が昼の光の中で空しく明滅している。
車を降りた瞬間、川風に乗って微かに鼻をつく匂いがあった。
泥と水草の匂い……いや、違う。
その奥に潜む、あの甘ったるく狂おしい、古びた化粧品の匂いだ。
「おう、来たか」
規制線をくぐった俺たちを迎えたのは、苦み走った表情の中垣内さんだった。
いつもは温厚なおっさん然としている彼だが、今は鋭い刑事の顔つきに戻っている。
「中垣内さん、状況は?」
俺が尋ねると、彼は無言で河川敷の草むらへと視線を促した。
「言葉で説明するより、直接見た方が早い。……かなりエグいぞ。覚悟しておけ」
草むらの先、鑑識課員たちが取り囲む中心に、その「それ」は横たわっていた。
「……うわっ、なんだこりゃあ……!」
隣で覗き込んだ黒田が、思わず息を呑んだ。
そこに横たわっていたのは、四十代半ばと思われる男性の遺体だった。
川から引き揚げられたばかりだというのに、遺体の皮膚はまるで何十年も乾かされたミイラのようにカラカラに干からび、全身の水分が完全に抜け落ちていた。
だが、本当に異常なのはそこではなかった。
遺体の顔面だけに、狂気じみた「化粧」が施されていたのだ。
白粉を塗りたくったような真っ白な肌に、耳まで引き裂かれたような真っ赤な口紅。
まぶたには濃い紫色のアイシャドウが塗りたくられ、干からびた男の顔が、歪んだ女の笑みを作り出していた。
「水死体のはずなのに、体内の水分がゼロだ。おまけに鑑識の話じゃ、この化粧は死後に塗られたものじゃない。皮膚の奥深くまで、顔料が染み込んでいるらしい」
中垣内さんが低い声で煙草の煙を吐き出した。
俺は膝をつき、冷静に遺体を観察した。
趣味でカメラをやっているせいか、俺の目は異物の細部を冷徹に捉える。
遺体の首元には、細い指で絞められたような紫色の鬱血痕。
そして、その顔から漂うのは……間違いなく、あの古臭い白粉の匂いだった。
「……男を殺し、女の顔を塗りつけて殺した、か」
俺がつぶやくと、後ろで黒田が急に黙り込んだ。
「黒田?」
振り返ると、黒田は遺体の顔を見つめたまま、呆然と立ち尽くしていた。
その表情は恐怖というよりも、どこか魅了されているかのようにうっとりとしている。
「……綺麗な顔だと思わないか、修司」
ポツリと、黒田が呟いた。
いつもの豪快で太い声ではない。どこか粘り気のある、艶を含んだ声だった。
「何を言っているんだ、黒田。しっかりしろ」
俺が眉をひそめて肩を強めに掴むと、黒田はハッと正気に戻ったように目を丸くした。
「あ……あれ? 俺、今、なんて言った……? いや、悪い、ちょっと眩暈がしただけだ」
黒田は照れ隠しのように頭を掻いたが、その手の動きはどこか優美で、以前の彼らしいガサツさが消えていた。
「おいおい、黒田。お前らしくないぞ」
中垣内さんも不審そうに黒田を見つめている。
俺は胸の奥で、嫌な予感が確信に変わっていくのを感じていた。
玲奈が言っていた「黒田の周りの空気の濁り」。
そして、この遺体に刻まれた常軌を逸した「執着」。
怪異の影は、俺たちのすぐ足元まで迫ってきている。
「中垣内さん。この被害者の身元は?」
「池田市に住む、古美術商の男だ。三日前に失踪届が出ていた」
「池田……」
豊中、尼崎、川西、そして池田。
阪北の街を縫うようにして広がる、怪奇の連鎖。
「次は、その被害者の家に行ってみましょう。池田に、何かが隠されているはずです」
俺はそう告げると、まだどこか空虚な目をしている黒田の腕を引いた。
「行くぞ、黒田」
「……ああ。そうだな、修司」
車へ戻る途中、ふと黒田の手首が視界に入った。
袖口から覗く彼の肌が、白く、なめらかに変質しているように見えたのは、俺の気の迷いだっただろうか。




