第2話:歪な日常
朝の光が薄カーテン越しに差し込み、静寂に包まれた寝室を柔らかく照らし出していた。
相良修司は静かに目を覚まし、ベッドの横に目を向けた。
そこには、昨夜の静かで激しい夜の余韻を残したまま、穏やかな寝息を立てている高槻玲奈の姿があった。
その顔は酷く満足げで穏やかだった。
細い手首に残るかすかな赤みと、乱れた黒髪。
普段は心理カウンセラーとして多くの人々に親身に寄り添い、誰にでも温和で優しい顔を見せる彼女だが、修司の腕の中だけで見せる…この無防備で執着的な姿こそが、彼女の真の実像だった。
修司はそっとベッドを抜け出し、キッチンへ向かった。
趣味であるコーヒーを丁寧にドリップし、深い香りが部屋に立ち込め始めた頃、衣擦れの音とともに玲奈が姿を現した。
「おはようございます、修司さん……」
「おはよう、玲奈。よく眠れたか?」
修司は柔らかい笑顔を向け、温かいカップを彼女に手渡した。
「はい……とても。修司さんにたくさん愛していただけたので……」
玲奈はカップを両手で包み込みながら、頬を染めてゆっくりとすり寄ってくる。
アノ事件から恋人になった二人だったが、ある時から玲奈は自分の欲望や本性を隠さなくなった。
彼女にとって、修司から与えられるモノは、己の存在を証明するための…何より…救いなのだと言った。修司に激しく束縛され、欲望をぶつけられることでしか、もう彼女の心は満たされないらしい…
「今日は午後からカウンセリングの予約が入っているんだろう? 無理はしないように」
「大丈夫です。……でも、修司さんが事件の調査に行かれてしまうと思うと、寂しくて、胸が苦しくて……」
玲奈の瞳に、深い依存から来る陰りが落ちる。
修司はその細い顎を指先で持ち上げ、彼女を見つめ返した。
「今日は俺の帰りを待っていればいいよ、玲奈」
「……はい。 修司さん……」
その一言に、玲奈の体に歓喜の震えが走る。
彼女は修司の膝に顔をうずめ、恍惚とした表情で受け入れていた。自分自身の居場所がここにある事の喜びだろうか…
正午を過ぎた頃、修司は豊中駅近くの喫茶店で黒田慎一と合流した。
「おう、修司! 遅かったじゃないか」
黒田は大盛りのナポリタンを豪快に頬張っていた。
サバサバとした明るい性格と、男気あふれる佇まい。かつて別の凄惨な事件で瀕死の重傷を負いながらも生還したこの男は、修司にとって最も信頼できる相棒だった。
「すまない、少し記事の推敲に時間を取られてた」
修司は席に着くと、さりげなく黒田の全身を観察した。
昨夜、玲奈が漏らしていた「黒田の周りの空気の濁り」という言葉が、頭の片隅に引っかかっていたからだ。
「で、豊中の失踪現場の聞き込みはどうだった?」
「ああ、それがさ……妙なんだよ」
黒田はフォークを置き、少し首をかしげた。
「消えたのは17歳の女子高生だ。失踪した夜、近所の住人が『変な音』を聞いてたらしい。水がバシャバシャ跳ねるような音と……女の歌声だ」
「歌声?」
「ああ。それも今どきの曲じゃねえ。昭和の初期……戦前に流行ったような、ドスの利いた、でも妙に艶っぽい狐憑きみたいな歌声だってさ」
修司は煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせた。
昭和初期の歌。そして、現場に残された古臭い化粧品の甘い匂いと大量の水。
「……関連性がありそうだな。尼崎の現場はどうだ?」
「そっちはこれから向かおうと思ってたところだ。尼崎の歓楽街の裏路地で、サラリーマンが消えた。やっぱり服だけが濡れて残されてたらしい」
話しながら、黒田はふと胸元を気にし、首筋をぽりぽりと掻いた。
「どうした、黒田?」
「ん? ああ……いや、なんか最近、肌が乾燥するっていうか、カサカサするんだよな。俺としたことが、保湿クリームでも塗ろうかと思っちまったよ。ハハハ!」
黒田は豪快に笑い飛ばしたが、修司は見逃さなかった。
黒田の指先——爪の形を気にするような、どこかすんなりとした繊細な動き。
男臭い彼には似つかわしくない、一瞬の微かな違和感。
「黒田、体調が悪くなったらすぐに言えよ。無理は禁物だ」
「おお、分かってるって! 俺を誰だと思ってんだ。さあ、腹も膨らんだし、尼崎へ移動するぞ!」
黒田は立ち上がり、力強く修司の肩を叩いた。
しかし、二人が店を出た直後、修司のスマートフォンが鳴った。
画面には「中垣内」の名が表示されていた。
「修司か。……今、どこにいる?」
電話の奥から聞こえる中垣内の声は、いつになく低く、張り詰めていた。
「豊中です。これから黒田と尼崎へ向かうところですが……何かありましたか?」
「……三人目が出た。今度は川西だ。猪名川の河川敷だ」
中垣内は一呼吸置き、重苦しいトーンで言葉を続けた。
「失踪者じゃない。……『遺体』で見つかった。すぐ来てくれ。現場の様子が、普通じゃない」
修司は視線を走らせ、先に歩いていた黒田の背中を見た。
眩しい陽光を浴びる黒田の影が、一瞬だけ、異常に長く、しなやかな女の輪郭を描いて伸びたように見えた。




