第1話 闇に消える街
阪急宝塚線の車窓から見える風景は、昼と夜とでまったく異なる顔を見せる。
昼間は、ベッドタウンとして発展した穏やかな街並みが広がっている。豊中の洗練された住宅街、池田の歴史ある佇まい、そして兵庫県へと足を踏み入れれば、川西の豊かな緑や尼崎の活気ある下町の匂いが混ざり合う。
だが、夜の帳が下りると、それらの街は一変して底知れぬ漆黒の闇を孕む。
「……相変わらず、いい顔をしてるな、修司」
煙草の煙の向こう側から、掠れた声が響いた。
場所は大阪市内の地下街にある、いつもの古びた喫茶店。カウンターの奥でマスターが黙々とカップを磨く音が響く中、相良修司はテーブルの上に置かれた薄い資料に目を落としていた。
修司の正面に座っているのは、大阪府警捜査一課の刑事・中垣内だ。今年で五十を超えるその男は、一見するとどこにでもいる穏やかな「普通のおっさん」に見える。しかし、その奥に秘められた鋭い観察眼と冷静沈着な捜査能力を、修司は二十年前から嫌というほど知っていた。
「お褒めに預かり光栄です、中垣内さん。……で、これがその『公にできない案件』ですか」
修司はその細身の体を少し引き上げ、白く長い指先で資料のページをめくった。
年齢を余り感じさせない端正な顔立ち。物腰は柔らかく、普段の彼は誰にでも優しい紳士的なフリーライターとして通っている。だが、その瞳の奥には、どんな怪異や異常事態にも動じない冷徹な頭脳が光っていた。
「ああ。豊中と尼崎を中心にして、ここ一ヶ月で六人の人間が姿を消している」
中垣内は苦い顔でコーヒーを啜った。
「失踪者の年齢も性別もバラバラだ。豊中の女子高生、尼崎のサラリーマン、川西の主婦……共通点がない。警察の手癖としちゃ、単なる蒸発や家出として処理したいところだが……現場に残された状況が不気味すぎる」
「不気味、とは?」
「現場にはな、必ず大量の『水滴』が残されているんだ。天候に関係なくな。それもただの水じゃない。甘ったるい、昭和の古い化粧品のような強烈な匂いが漂う水だ。そして……失踪者が身につけていた衣服だけが、濡れた状態でその場にポツンと残されている」
修司の隣で、豪快にアイスコーヒーを飲み干した男が声をあげた。
「まるで人間だけが溶けて消えたみたいじゃないか」
黒田慎一だ。修司と同い年の45歳で、長年の友人であり、同じくフリーライターとして活動している。ガッチリとした男らしい体格に、サバサバとした明るい性格。かつて別の異常な事件に巻き込まれ、臨死体験とも言える死線を潜り抜けた過去を持つが、持ち前の前向きさで今ではすっかり元通りに動き回っていた。
「笑い事じゃないぞ、黒田」と中垣内は目を細める。
「防犯カメラにも一切映っていない。人間が一瞬で消えているんだ。科学捜査じゃ拉致があかん。こういう『臭う』事件は、お前たち裏の識者に知恵を借りるのが一番だと思ってな」
修司は静かに思考を巡らせた。
阪北から阪神エリアにかけて走る、不可解な連続失踪。箕面や能勢といった古い歴史と霊山を抱える地域も近い。単なる誘拐事件でないことは、中垣内の顔を見れば判る。
「わかりました。黒田と一緒に、少し独自に調べてみます。まずは現場の空気を感じてみないと…ですね」
「助かるよ、修司。何か分かったらすぐに連絡をくれ。……それと、玲奈ちゃんにもよろしくな」
中垣内がニヤリと口元を緩めた。修司は表情ひとつ変えず、「ええ、伝えておきます」とだけ答えた。
喫茶店を出たのは、すっかり日が暮れた頃だった。
「なあ修司、とりあえず豊中の最初の失踪現場から当たってみるか?」
黒田がタバコに火をつけながら尋ねてくる。ワイルドな横顔と力強い体つきは、いかにも男らしく頼もしい。
「そうだな。だが…調査は明日から本格化させよう。お前も無理はするなよ、黒田。怪我の後遺症はないと言っても、油断は禁物だ」
「へいへい、相変わらず心配性だなあ、お前は! 頼りにしてるぜ、相棒」
黒田はガハハと豪快に笑うと、背中を叩いて自分のバイクへと向かっていった。修司はその背中を見送りながら、ふと胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。夜風に乗って、一瞬だけ——本当に一瞬だけ、甘ったるい、古い化粧品のような匂いが鼻腔をかすめた気がしたからだ。
修司は小さく首を振り、自身のマンションへと帰路を辿った。
部屋の鍵を開けると、玄関にはすでに一双の小ぶりなヒールが揃えられて置かれていた。
「おかえりなさい、修司さん」
奥から姿を現したのは、恋人の高槻玲奈だった。
心理カウンセラー。背中まで伸びた綺麗な黒髪に、控えめな顔立ち。派手さはないが、しなやかで抜群のスタイルを持ち、どこか男性の庇護欲を掻き立てる独特のフェロモンを今も漂わせている…
「ただいま、玲奈。待たせた」
修司は笑みを浮かべ、彼女の頬を優しく撫でた。玲奈はその手にすり寄り、愛おしそうに目を細める。
誰に対しても温和で優しい彼女だが、修司の前にいる時だけは違った。
アノ事件以後…その瞳には、熱狂的とも言える深い依存となぜか…服従?の色が宿っている気がしている。
多分…俺達は相性がかなり良い…
「中垣内さんからのお仕事……危険なことなんですか?」
「少し気味の悪い事件だ。玲奈が心配することはないよ」
修司は静かにジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた。その瞬間、彼の瞳から「優しい紳士」の光が消え、冷たく、支配的な「S」の色彩が宿った。
修司の手が、玲奈の細い首筋に回る。少しだけ力を込めると、玲奈は「くうっ……」と短く息を漏らし、急にうっとりとした表情で修司を見上げた。
「……修司さん。もっと……強くして……」
「いい子だ、玲奈。君は俺のことだけを考えていればいい」
修司は玲奈の体を抱き上げ、寝室へと向かった。
昼間の rational(理性)的な顔は脱ぎ捨てられ、夜の深い闇の中で、二人の狂おしいほどの愛の儀式が始まる。
痛みを伴う愛撫と、それに悦びを感じる玲奈の重い依存。二人の関係は、世間の常識からは外れているかもしれないが、確実に互いの魂を繋ぎ止めていた。
激しい夜が過ぎ、玲奈が修司の胸の中でまどろんでいる時、彼女はぽつりと呟いた。
「……修司さん。今日、黒田さんに逢いましたか?」
「ああ、昼間に一緒だったよ。どうした?」
玲奈は修司の胸に顔をうずめ、少し不安そうに眉を寄せた。
「心理カウンセラーとしての感覚……ううん、胸騒ぎみたいなものなんですけど。黒田さんの周りの『空気』が、少し濁っているような気がして……。何か、見えない大きなものに覗き込まれているような……」
修司は無言で玲奈の髪を撫でた。
アノ事件からの玲奈の直感は、警察の鑑識以上に鋭い。
「黒田か……。明日、あいつの様子も注意して見ておくよ」
窓の外では、静まり返った阪北の街に、冷たい夜露が降り注いでいた。
それはまるで、これから始まる惨劇の幕開けを告げる、死者の涙のようでもあった。




