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第19話:黒田



カメラの眩い光が収まると、能勢の境内に立ち込めていた赤黒い霧は、まるで幻だったかのように夜風の中に霧散していった。


ーーー 静寂が戻ってくる。


耳を打つのは、杉林を揺らす風の音と、深く荒い俺たちの呼吸音だけだった。


崩れ落ちた黒田は、膝をついたまま動かない。


「……あ……あぁ……」


その口から漏れたのは、先ほどまでの甲高い怨霊の声ではなかった。


しかし、かつての豪快で太い黒田慎一の声でもない。どこかしなやかで、途切れ途切れな、切ない吐息だった。


「修司……さん……」


俺の傍らで、肩から血を流した玲奈が膝をついた。

俺は無言で彼女の身体を支え、自らのハンカチを彼女の傷口に強く押し当てた。


「喋るな、玲奈。息を整えろ」


「はい……。でも……

 見てください……黒田さんを……」


玲奈の視線の先。


光の手繰り寄せによって、昭和の怨霊は消滅した。人を干からびさせ、無差別な失踪と殺戮を巻き起こした『呪い』は、確かに祓われたのだ。


黒田慎一は元通りの無骨な男に戻っているはずだった。


だが——


黒田はゆっくりと、顔を上げた。

朱色の着物は破れ、白粉は涙と汗でドロドロに溶け落ちていた。しかし、その瞳には怨霊に憑依されていた時の狂気はない。

代わりに宿っていたのは、澄み渡るような、哀しくもどこか晴れやかな「己の覚醒」の色彩だった。


「……修司……」

黒田が口を開いた。


その言葉遣い、その首の傾げ方。

怨霊が消え去ったにもかかわらず、黒田の精神と仕草は、完全に「ニューハーフ」のそれとして固定されていた。


「……怨霊は、もういないわ。

 私の頭の中から、あの子の叫びは消えた……」


黒田は細くなめらかな指先で、溶けた化粧をそっと拭った。


「でもね……修司。消えなかったのよ。……

 私の中に生まれた

 『本当の私』は…… 消えてくれなかったの」


俺は冷徹な眼差しを崩さぬまま、一歩踏み出した。


「黒田。……正気に戻ったなら、その姿をやめろ。

 お前はフリーライターの黒田慎一だ」


俺の言葉に、黒田は哀しそうに、けれど慈しむような笑みを浮かべた。


「ふふ……冷たい人ね、修司。

 でもね、もう誤魔化せないのよ」


黒田は破れた着物の裾を愛おしそうに撫でた。


「怨霊に見せられた夢は……狂気だったかもしれない。でも、あのドレスを纏い、白粉を塗り、女として息をしたあの瞬間……俺……ううん、『私』の心が、生まれて初めて歓喜で震えたの」


黒田の目から、一筋の綺麗な涙が頬を伝って落ちた。


「この45年間は

 全部本当の自分を殺すための嘘だった……。

 あの子は私を解放してくれたのよ。

 怨霊が去っても、目覚めてしまった私は、、

 もう元の『男』には……戻れない…」


その言葉に、嘘や憑依の余地はなかった。

怨霊は黒田を乗っ取ったのではない。黒田の奥底に眠っていた「さが」の引き金を引くための、悪夢のようなきっかけに過ぎなかったのだ。


退魔は成功した。しかし、一度目覚めた魂の変容は、どんな霊力や科学でも「元通り」にはできない。


「……そうか」


俺は短く呟いた。

胸の奥を刺すような、酷く冷たく切ない痛みが走る。

長年の相棒。過酷な事件を共に潜り抜け、ガハハと豪快に笑い合っていたあの黒田慎一は、この阪北の連続惨劇の渦中で永遠に失われたのだ。


「……黒田」


後ろから、血を吐きながら立ち上がった中垣内さんが、重い足取りで歩み寄ってきた。手には、まだ拳銃が握られている。


「……お前が正気だと言うなら……

 警察として、俺はお前を逮捕しなければならん、、

 尼崎や豊中で起きた連続殺人の容疑者としてな」


中垣内さんの声は途切れ、苦渋に満ちていた。


黒田(紅)はゆっくりと立ち上がった。


大柄な体躯でありながら、その佇まいはどこからどう見ても、誇り高き一人の女のそれだった。


「おっさん……いいわよ。私を連行しなさい」


黒田はそっと両手を差し出した。


「男たちを殺したのは……怨霊の意志であり

 そして私自身の歪んだ欲望でもあった……。

 その罪は、どんな地獄に行っても償うわ」


「黒田……っ」


中垣内さんが拳銃を下ろし、指錠(手錠)を取り出そうとしたその時——



「待ってください、中垣内さん!」



俺はポケットからカメラを取り出し、冷徹な頭脳で場の状況を分析した。


「連続失踪事件の現場に残されたのは

 身元不明の『女』の防犯カメラ映像と

 怪異の証拠だけです。

 黒田を連続猟奇殺人犯として逮捕すれば

 警察は『怪異が存在したこと』を公に認めるか

 あるいは……冤罪の泥沼にハマることになります」


中垣内さんは目を見開いた。


「なに……? 修司、お前、何を言っている……!」


「黒田慎一は………

 能勢の事件調査中に怪異に巻き込まれ

 行方不明となった……。

 そう処理するのが、警察にとっても

 世間にとっても一番の安着です」


俺の冷酷で理知的な提案に、中垣内さんは息を呑み、そして深く深く顔を伏せた。


「……くそっ……! 俺は……刑事として……!」

「刑事である前に、あなたは黒田の知人でしょう」


俺は黒田に向き直った。


「黒田。いや……『紅』」


黒田は驚いたように目を見開いた。


「お前はここから消えろ。二度とこの街に姿を現すな。

 ……それが、お前が犯した罪への処罰だ」


黒田は涙を流しながら、くすくすと可笑しそうに、そして可憐に笑った。


「……本当に、どこまでも冷酷で……優しい男」


黒田(紅)は破れた着物の裾を優雅に翻した。




「さようなら、私の愛しい人たち。

 ……『黒田慎一』は……今日、ここで死にました」




黒田(紅)は背を向けると、杉林の奥、闇の中へと消えていった。その足取りには、もう怨霊の禍々しさはなかった。ただ一人の、真の自分として生きることを受け入れた、可憐で悲しい後ろ姿だけがやけに印象的だった。


夜空の雲が切れ、澄んだ月光が境内を照らし出す。


阪北を恐怖に陥れた連続失踪殺人事件は

こうして静かに…

そしてあまりにも哀しい結末を迎えたのだった。


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