第18話:願望
能勢の夜風が、赤黒い霧とともに境内を吹き荒れていた。月明かりの下、鮮血で染まった朱色の着物を翻し、仁王立ちする怪異——『紅』となった黒田慎一。
その姿は恐ろしくも凄絶で、異様な美しさを放っていた。
「……さあ、始めましょう?
修司。私とあんたの、本当の愛の儀式を!」
黒田(紅)が艶やかな声を張り上げ、地面を叩いた。
ドォン!! と激しい衝撃波が走り、境内の石灯篭が粉々に砕け散る。赤黒い霧が生き物のようにうねり、俺たちの視界と呼吸を奪おうと襲いかかってきた。
「修司、下がるな!!」
中垣内さんが叫び、渾身の力で拳銃の引き金を引いた。
銃声が夜の山々に虚しくこだまする。だが、放たれた弾丸は黒田(紅)の周囲を漂う濃密な霊気に阻まれ、その着物の裾をかすめることすらできずに弾き飛ばされた。
「無駄よ!! この場所はね、私が生まれ、そして私が『神』になった絶対の領域!」
黒田(紅)が爪を鋭く突き出し、一瞬で中垣内さんの眼前に肉迫した。大柄な男の跳躍力と、怪異の速度。
「ぐあっ……!?」
中垣内さんの身体が軽々と宙を舞い、境内の太い杉の木へと激しく打ちつけられた。鈍い音とともに血を吐き、老刑事が崩れ落ちる。
「中垣内さん!」
俺は叫び、咄嗟に立ちふさがった。
だが、黒田(紅)の狙いは最初から俺一人だった。
「ふふ……邪魔者は消えたわ。ねえ、修司……」
黒田(紅)はなめらかな動作で俺の至近距離まで踏み込み、その長くなめらかな指先で俺の喉元をそっとなぞった。
白粉と高級香水、そして強烈な血の匂いが俺の脳を麻痺させようとする。
「あんたのその冷たい目……私を化け物として見つめるその冷酷な瞳が、たまらなく愛おしい。……あんたの男としての全てを、この私によこしなさい!」
黒田(紅)の瞳には、かつて昭和の闇に葬られた娼婦の絶望的な哀しみと、黒田自身が手に入れた『ニューハーフとして愛される歓喜』が、混ざり合って燃え盛っていた。
俺は喉元に爪を突きつけられながらも、一切の動揺を見せず、冷徹な目で黒田(紅)の瞳を直視した。
「……哀れだな、黒田」
俺の低い声が、静かに落ちた。
「な……なんですって……?」
「お前は怨霊の恐怖に支配されたんじゃない。
己の内にある『女になりたい』という欲望を
正当化するために……怪異の力を借りただけだ」
俺はカメラを構えたまま、言葉の刃を突き立てた。
「男として生きる恐怖から逃げ
怨念という毒を呑み込んで
偽りの美しさに酔いしれている……。
お前がどれだけ飾り立て、白粉を塗ろうと、
その根底にあるのは…ただの自己満足と逃避だ!」
「黙れぇぇ……!!」
黒田(紅)の顔が激怒に歪む。
真っ赤な口紅で塗られた唇が引きつり、目元からボロボロと白い粉が落ちる。
「逃避じゃない!! 私は覚醒したのよ!
惨めな男の皮を脱ぎ捨てて…
極上の女として生まれ変わったのよ!!」
「いいや、違う!」
俺はカメラのファインダー越しに冷たく見据えた。
「お前はただ……認められたかっただけだ。
男としても、女としても中途半端な自分を
ただ誰かに抱きしめて欲しかっただけだ
……だがな、そんな歪んだ歓喜のために
大勢の人を殺し、玲奈を傷つけることを…
俺は絶対に許さない!!!」
「修司ぃぃぃっ!!」
狂乱した黒田(紅)が、両手を振り上げて俺の胸を貫こうと襲いかかってきた。
その瞬間——
「修司さんっ!!」
物陰から叫び声とともに飛び出してきた影。
彼女は全身の激痛に耐えながら、白粉と血で汚れた白いドレスをなびかせ、俺と黒田(紅)の間に自らの身体を投げ出した。
「な……っ!?」
黒田(紅)の鋭い爪が、玲奈の細い肩を深く引き裂いた。
鮮血が霧の様に夜空に舞う。
だが、玲奈は悲鳴をあげなかった。
彼女は血を流しながら、黒田(紅)の大柄な身体に正面から抱きついたのだ。
「あ……くっ……! 心理カウンセラーとして……あなたに言います……!」
玲奈は血を吐きながら、黒田(紅)の耳元で叫んだ。
「あなたが……どれほど美しく装おうと……あなたの心は泣いています! 『助けてくれ』と……『本当の俺を見てくれ』と、黒田さん自身の魂が叫んでいるんです!!」
「やめろ……やめろぉぉぉっ!!」
心理的な核を射抜かれた黒田(紅)が、激しく頭を押さえて狂乱した。
怨霊の絶望と、黒田自身の抑圧された悲鳴が、玲奈の言葉によって激しく衝突し始める。
「今だ……!!」
俺はその一瞬の隙を見逃さなかった。
俺はカメラのフラッシュを最大光量に設定し、黒田(紅)の顔面の真前で焚いた。
バシャッ!!!!
強烈極まる白い光が、能勢の漆黒の闇を、そして怨霊の領域を完璧に切り裂いた。
「ギャアアアアアアッ!?」
光の束に射抜かれ、黒田(紅)の目から、口から、傷口から、赤黒い霧が奔流となって噴出し始めた。
怨霊の核である『男たちへの憎悪』と『恐怖の支配』が、フラッシュの光線と玲奈の拒絶(痛みを快楽とする狂気)によって、完全に粉砕されていく。
「あぁぁっ……私の中の……
私の中の『美しさ』がぁぁぁっ!!」
黒田(紅)は血の涙を流しながら崩れ落ち、井戸の縁へと倒れ込んだ。境内に漂っていた濃密な白粉の匂いが、風に乗って急速に薄れていく。
俺はカメラを静かに下ろし、荒い息を吐きながら倒れ伏す旧友を見下ろした。
退魔は成った。
怨霊の呪いは打ち破られ、ここに終わりを告げたのだ。
しかし——俺たちの目の前には、怨霊から解放されながらも、二度と元の『男』には戻れない相棒の姿が残されていた。




