第17話:能勢、終焉の地
川西の廃工場を抜け出した俺たちは、深夜の国道を北上し、大阪最北端の能勢町へと車を走らせていた。
街灯の光は次第に途切れ、暗鬱な杉林が道路の両脇から覆いかぶさってくる。
車内は死のような静寂に包まれていた。
運転席でハンドルを握る中垣内さんの横顔は、彫像のように硬くこわばっている。
後部座席では、先の激闘で負傷した玲奈が、俺の腕の中で身体を委ねていた。
「大丈夫か、玲奈」
俺が低い声で尋ねると、玲奈は弱々しく首を振った。
「はい……修司さん……。痛みは……私に修司さんの存在を感じさせてくれますから……」
そう言って微笑む彼女。その瞳には、死の恐怖など微塵もなかった。修司の手に握られていること、修司の支配下にあることへの狂信的な恍惚。怪異の毒を無力化するほどのその歪んだ想いが、彼女を繋ぎ止めている。
「もうすぐ着くぞ」
中垣内さんの重い声が車内に響いた。
車のライトが照らし出したのは、以前訪れた時よりも一層、濃密な漆黒の闇に包まれた山道の入り口だった。
雨はいつの間にか止んでいたが、山全体から立ち上る湿気と、あの悪夢のような白粉の匂いが風に乗って漂ってくる。
下界で嗅いだ匂いとはまるで違う。
何十年もの間、井戸の底で煮詰められた怨念と、狂気に目覚めた黒田の肉体が放つフェロモンが混ざり合い、呼吸するだけで肺が腐りそうなほどの重圧となって押し寄せてきた。
俺たちは車を降り、懐中電灯の光だけを頼りに苔むした参道を登った。荒れ果てた山門をくぐり、境内に足を踏み入れた瞬間、俺たちの皮膚にチクチクとした針で刺されるような霊的な痛みが走った。
「……酷い気配だ」
中垣内さんが腰の拳銃に手をやりながら、低く吐き捨てた。境内の奥、かつて惨劇の舞台となった古い井戸の周りには、真っ赤な液体で巨大な魔法陣のような図形が描かれていた。
それは殺害された男たちの血であり、黒田(紅)自身の膝や胸から流れた鮮血だった。そして、その井戸の上に築かれた、崩れかけた本堂の壇上。
そこに、影がいた。
「……遅かったじゃない、修司。
首を長くして待っていたのよ」
静寂を切り裂いて届いたのは、甘ったるく、艶めかしく、そして骨太な響きを孕んだ「女」の声だった。
本堂の奥から、ゆらりと姿を現したその存在に、俺たちの息が止まった。血で染まった黒のベルベットドレスから、絢爛豪華な朱色の着物へと召し替えられた巨体。
肩をすぼめ、しなやかに腰をくねらせる立ち振る舞いは、一瞬、美しき舞姫のようにも見誤るほど洗練されていた。
だが、その顔面は——
濃密な白粉で真っ白に塗り固められた肌に、切れ上がった目元は紫と紅の絵の具で彩られ、耳まで裂けたかのような唇には、ドロリとした濃い赤口紅が塗りたくられている。
月光を浴びて妖しく発光するその姿は、かつての相棒・黒田慎一の面影を完全に削ぎ落とし、異形の美を誇る『狂気の美姫』として降臨していた。
「……黒田……っ」
中垣内さんの声が震えた。
「その名前で呼ばないでって…
何度、言わせる気?…… おっさん」
黒田(紅)は可憐に首をかしげ、袖から伸びた長くなめらかな指先で唇を覆ってクスッと笑った。その指先には、血のような赤のマニキュアが鋭く光っている。
「今の私はね……怨念の女王であり、男たちの欲望を喰らう神なのよ。……ねえ、修司。この場所、とっても素敵でしょう?」
黒田(紅)は着物の裾をふわりとひるがえし、クルリと一回転してみせた。
「ここで私は一度死に、そして『本当の私』として生まれ変わるの。男の身体に宿った、世界で一番美しくて冷酷な女としてね……!」
「……黒田」
俺は冷静に歩み出た。
「お前は怨霊に操られているのではない。お前自身が、その異形の姿と快楽を…肯定しているんだな?」
「当たり前じゃない!」
黒田(紅)の瞳が、爛々と狂気の光を放った。
「男らしくあれって押しつけられる退屈な日常なんて、もうウンザリだったのよ! 誰よりも美しく飾り立てられ、男たちを恐怖と欲望でひれ伏せさせる……こんな最高な生き方、他にどこにあるっていうの!?」
黒田(紅)の叫びとともに、能勢の山全体が激しく揺れ動いた。井戸の底からバシャバシャと激しい水跳ねの音が響き渡り、赤黒い霧が境内に充満していく。
怨霊の悲劇的な怨念と、黒田慎一という男の肉体が手に入れた「ニューハーフとしての歓喜」。
二つの狂気が完全に噛み合い、この地で怪異としての絶対的な威力を確立させようとしていた。
「修司……お前は私のものよ」
黒田(紅)は濡れた瞳で俺をみつめ、妖しく手を差し伸べてきた。
「その冷たい頭脳も、冷酷な眼差しも……
あの地味な女をここで干からびた皮にして
あんたを私だけの愛奴にしてあげる……!」
「断る!!」
俺は即座に吐き捨て、カメラを構えた。
「お前がどれほど美に酔いしれようと、お前はただの哀れな化け物だ。……その狂気の夢は叩き潰してやる」
「……ふふ、ふははははっ!!」
黒田(紅)の狂気の高笑いが、能勢の夜空へとどこまでも響き渡っていった。怨念と愛憎、そして覚醒したニューハーフの美姫。
すべての因縁が交錯する能勢の廃寺で、惨劇の最終幕が切って落とされた。




