第20話:輪舞の終わり
能勢の廃寺から黒田(紅)が夜の闇へと消え去り、数週間が過ぎた。阪北の街を揺るがした連続失踪惨劇は、あまりにも唐突に、そしてかなり歪な形で幕を閉じた。
警察の公表では、一連の事件は「広域怪死・行方不明事件」として処理され、古美術商の村井やその他の被害者たちの死は原因不明の病死や事故として収束させられた。
そして、フリーライター・黒田慎一の存在は、事件の取材中に巻き込まれた「不運な行方不明者の一人」として、静かに世間の記憶から削ぎ落とされた。
真相を知るのは、俺と、中垣内さん、そして玲奈の三人だけだった。
初夏の兆しが見え始めた午後の光が、事務所の窓から静かに差し込んでいた。部屋にはいつもの静寂が戻っていたが、かつて黒田がドカッと腰掛けて缶コーヒーをあおっていたソファーの定位置は、ポカリと空いたままになっている。
ガハハという豪快な笑い声も、あいつの男くさい汗の匂いも、もうここにはない。
デスクの引き出しには、あいつが遺していったあの皮塗りの日記帳と、能勢の井戸の脇で拾い上げた皮のブレスレットが静かに眠っている。
ブレスレットにしみついていたあの狂おしい白粉の香りは、時間をかけて徐々に薄れ、今では遠い夏の日の残像のような匂いへと変わりつつあった。
カチャリ、と紅茶のカップがテーブルに置かれる音が響いた。
「……修司さん」
玲奈が静かな歩調で歩み寄り、俺の隣にそっと寄り添った。彼女の肩の傷はまだ完全に癒えてはおらず、白いブラウスの奥には痛々しい包帯が巻かれている。
だが、その表情に影はなかった。
怪異の恐怖に晒され、痛みを刻み込まれたことで、彼女の瞳はより一層深く、澄み切った狂信的な光を宿している。
彼女の感情は、以前より加速している様だ。
「肩の具合はどうだ」
俺が尋ねると、玲奈は愛おしそうに自分の肩に手を当て、うっとりとした笑みを浮かべた。
「痛みます……。でも、この痛みが私に教えてくれるんです。……私は修司さんに救われ、修司さんのために傷ついたのだと」
玲奈はそっと俺の膝に首を預け、見上げてきた。
「心理カウンセラーとして、多くの人の歪んだ心を見てきました。……でも、あの夜の黒田さんは……とても綺麗でした。怨霊の呪いから解き放たれ、一人の女性として闇に消えていったあの背中は……哀しいほどに美しかった」
「……そうか」
俺は無言で玲奈の髪に指を絡めた。
玲奈は「あ……っ」と短い喘ぎを漏らし
瞳を潤ませて俺を受け入れる。
アノ事件の恐怖に未だ怯える彼女を、安心させ繋ぎ止めるためだった…俺からの支配。それも今は…お互いに求め理解し納得している。この歪んだ愛の形こそが、怪異の惨劇を生き残った俺たちの……もう、逃れられない日常になった。
その時、事務所のドアが静かに開き、見慣れたコートを着た男が入ってきた。中垣内さんだ。
「……邪魔するぞ、修司」
どこか落とし物を探すような疲労と、事件を終わらせた男の諦念が刻まれていた。
「中垣内さん。警察の方は落ち着きましたか」
「ああ……本部の偉いさん方も、これ以上つつかれては困るらしくてな。捜査本部は正式に解散だ。事件は『未解決の広域失踪事故』として書類の山に埋もれたよ」
中垣内さんはソファーに深く腰掛け、煙草を取り出した。ライターの火が小さく爆ぜ、紫煙が部屋の光の中にたゆたう。
「……修司。昨日な
尼崎の歓楽街で……変な噂を聞いたんだ」
煙を吐き出しながら、ポツリと言い落とした。
俺は手を止め、見つめた。
「噂、ですか」
「ああ。深夜のディープなエリアで……絢爛豪華なドレスを着た、大柄でとびきり美しい『新人のママ』が店を開いたらしい」
中垣内さんは苦笑交じりに、どこか遠い目をした。
「そのママは、男たちの愚かな愚痴をフンフンと妖艶に聞き流しながら、時折、冷酷で理知的なアドバイスをくれるそうだ。……そして、客の男が乱暴を働こうものなら、男顔負けの凄い力でつまみ出すんだとよ」
部屋の中に、短い静寂が訪れた。
俺は窓の外、遠く広がる阪北の街並みに視線を向けた。
黒田慎一という男は死んだ。
だが、あの能勢の闇の奥で、己の「性」と「生き様」を受け入れた一人の美姫——『紅』は、今もどこかの夜の街で、強く、可憐に生きているのだ。
怨霊の悲劇的な輪舞は終わった。
だが、人間が抱える怨念や愛憎、そして抑圧された欲望が存在する限り、この街のどこかで新たな怪異の輪舞が紡がれるのかもしれない。
「……そうか」
俺は短く答え、デスクの上のカメラを持ち上げた。
「あいつが自分の選択で生きているなら……
俺たちが口を挟むことじゃない」
「そうだな……」
中垣内さんは煙草を灰皿に押し付け、立ち上がった。
「修司、玲奈ちゃん。……また酒でも飲もう」
「ええ。いつでも」
中垣内さんが去り、再び静けさが戻った事務所で、俺はファインダーを覗き込んだ。
レンズの先には、俺の冷酷な視線を一心に受け止め、幸せそうに頬を染める玲奈の姿があった。
俺は静かにシャッターを切る。
カシャリ、と冷たい機械音が響きく
彼女の柔らかな微笑みとその歪んだ愛の瞬間が
ファインダーの中に永遠に切り取られた。
怨霊の輪舞は終わりを告げ、俺たちの密やかな新しい日常が、ここから始まっていく。
そう思いながら、二人で街を見下ろしていた。
ーー 終 ーー




