第15話:身代わりの儀
激しい雨が、川西の工業地帯に佇む廃工場のトタン屋根を狂ったように叩き続けていた。
猪名川の濁流がすぐ近くで唸りを上げ、夜の闇と相まって底知れぬ圧迫感を醸し出している。
かつて金属加工を行っていたというその広大な敷地内には、錆びついた大型重機や倒れたドラム缶が無造作に放置され、油と湿気、そしてカビの入り混じった腐臭が立ち込めていた。
俺と玲奈は、静かにその廃工場の扉を押し開けた。
「……ここですね、修司さん」
玲奈の声は思いのほか落ち着いていた。
彼女は薄手の白いドレスを纏い、濡れた黒髪を背中に垂らしている。
その佇まいは、暗鬱な廃工場の中で異彩を放つほど儚く、そして…妖艶だった。
心理カウンセラーとしての鋭敏な感性が、周囲の空間全体に満ち満ちている「死と執着の気配」を過敏に感じ取っているはずだ。しかし、彼女の瞳に宿るのは怯えではない。
俺のすぐ隣に立っているという揺るぎない事実と、俺のために身を差し出しているという…狂信的な喜びが、彼女の恐怖を完全に塗りつぶしていた。
「焦るな、玲奈。
俺の合図があるまで、一歩も俺の後ろから出るな」
俺は低い声で命じ、ポケットの中の拳銃——中垣内さん経由で密かに手配した小型のリボルバーに指をかけた。
俺の本業はライターであり、頭脳派だ。だが、この局面において物理的な殺傷能力を排除するような甘さは持っていない。
その時だった。
パリン……と、頭上の割れた高窓から風が吹き込み、雨の匂いを一瞬で塗りつぶした。
目も眩むような、あの濃厚で激しい古粉と高級香水の甘い香りが、渦を巻いて工場内を満たしていく。
「……ふふふ。いらっしゃい、私の愛しい人たち」
甲高くて艶やかな、だが骨太な響きを孕んだ声が、暗闇の天井近くから降ってきた。
カツン……カツン……と、錆びついた鉄製のキャットウォークを叩くハイヒールの音が響く。
見上げると、そこに影が立っていた。
深紅の豪華なドレスを纏い、肩をすぼめてしなやかに腰をくねらせる巨大なシルエット。
覚醒した怪異——黒田(紅)だ。
濃密なメイクが施されたその顔面は、暗闇の中で白く発光しているかのようだった。
真っ赤な口紅で彩られた唇が、歪んだ三日月のように吊り上がっている。
「本当に来てくれたのね、修司……。それに、そっちの地味な女も一緒なんて……なんて素晴らしい夜なのかしら!」
黒田(紅)は空中を舞うように階段を降りてきた。
大柄な肉体でありながら、その足取りは羽のように軽く、恐ろしいほどの躍動感を伴っている。
男の骨格がもたらす圧迫感と、女装の娼婦の怨念が醸し出す怪異の妖艶さ。
二つが高度に融合したその姿は、まさに狂気の悪魔そのものだった。
「黒田……いや、『紅』と言ったな」
俺は冷徹な眼差しで、近づいてくる化け物を見据えた。
「玲奈を殺したところで、お前の望むものは手に入らない。お前が求めているのは、自分の美しさを肯定する男の存在だ。……そうだろう?」
俺の問いかけに、黒田(紅)は足を止め、胸元に長くなめらかな指先をあててくすくすとおかしく笑った。
「あら、さすが修司……。そうよ、私はただ愛されたいの。男たちの欲望のために惨殺された哀しい私を……この完璧に美しく生まれ変わった私を、本当の男に抱きしめてほしいのよ!」
その瞳に、狂おしいほどの情念が燃え上がる。
「でもね、修司。あんたの心には、その女がいる……。それが邪魔なのよ! その女の顔を白粉で塗りつぶし、体中の水分を全部絞り出して乾からびた皮にしてあげないと、あんたは私だけを見てくれないでしょう!?」
叫ぶと同時に、黒田(紅)の身体から凄まじい妖気が噴出した。周囲に転がっていた鉄パイプやドラム缶が、見えない力に弾かれてガラガラと音を立てて転がる。
「修司さん、下がってください……!」
玲奈が意を決したように、俺の前に一歩踏み出した。
「 玲奈、引けと言ったはずだ!」
俺の制止を無視し、玲奈は黒田(紅)の正面へと進み出た。白いドレスが風に揺れ、その細い首筋が無防備に晒される。
「聞きなさい、怨霊……そして黒田さん!」
玲奈の声が廃工場内に響き渡った。
「あなたたちがどれほど惨めな過去を持ち、どれほど美しく化けようとも……修司さんの心は絶対に奪えません! 修司さんが求めているのは、あなたのような偽物の美しさではない……修司さんの支配を受け入れ、修司さんのために傷つく覚悟のある『私』だけなんです!」
「……な……なんですって……!?」
黒田(紅)の顔が余りの激怒に、引き攣り歪んだ。
「この生意気な 雌豚がぁぁぁっ!!」
黒田(紅)は猛然と地を蹴った。
巨体からは想像もつかない速度で空間を跳び、その長く尖った赤い爪を突き出して玲奈の喉元へと襲いかかる。
「醜く死ね!!」
ドォン!! と凄まじい衝撃音が響き、玲奈の身体が軽々と宙を舞って壁際に叩きつけられた。
「玲奈!!」
俺は咄嗟に拳銃を構えた。
だが、壁際に倒れ込んだ玲奈は……死んでいなかった。
背中を激しく打ちつけ、肩の骨が軋むほどの痛みに見舞われながらも、彼女の顔に浮かんでいたのは恐怖ではなかった。
「あ……くっ……はは……っ」
玲奈の口から、歪んだ嘲笑が漏れた。
彼女の瞳は熱く湿り、激痛に身を悶えさせながら、快楽に震えていた。
「どうしたのですか……? 怨霊……。あなたの攻撃は……私に恐怖を与えられない……。私にとって、激痛も……修司さんを感じるための歓喜でしかないのですよ……!」
「……な……に……!?」
黒田(紅)が絶句し、思わず絶句して後退した。
怨霊の力の源泉泉は「相手に与える絶望と恐怖」だ。
被害者が恐怖に狂い、水分を吸い尽くされて絶命するプロセスこそが、怨霊の存在理由だった。
玲奈という女の精神構造は、とっくに歪んでいた。
与えられる激痛や死の恐怖すらも、修司への服従と依存の証として「快楽」に変換してしまう狂気。
恐怖が効かない存在を前にして、怨霊の持つ怪異の論理が崩壊しかけていた。
「今だ……!」
俺はその一瞬の隙を見逃さなかった。
玲奈がその異常な狂気で怨霊の意識を完全に釘付けにした、まさにその刹那。
俺はポケットから拳銃を引き抜き、躊躇することなく黒田(紅)の膝に向けて引き金を引いた。
バンッ!!
静寂を切り裂く爆音が響き、黒田(紅)の右膝から赤黒い血が弾けた。
「きゃああああっ!?」
膝を打ち抜かれた黒田(紅)が、悲鳴をあげて崩れる。
「中垣内さん! !!」
俺が暗闇に向かって叫んだ瞬間——
廃工場の割れたガラス窓や大型の搬入口から、一斉に強烈なサーチライトの光が照射された。
「警察だ! 動くな!!」
中垣内さんのダミ声がスピーカー越しに響き渡り、特殊部隊(SAT)の隊員たちが一斉に雪崩れ込んでくる。
光の束に射抜かれた黒田(紅)は、ドレスを血で染めながら、まるで光に晒された蛇のように激しく身を悶えさせた。
「あ……ああああっ! 光が……光が私を焼くわ!! 修司……修司ぃぃぃっ!!」
完璧だった怪異の調和が破れ、怨霊の狂叫と黒田自身の悲鳴が交錯する。
だが、俺たちの頭脳戦と玲奈の異常な覚悟によって仕掛けられた罠は、怪物となった旧友を完全な追い込みへと絶望の淵に立たせていた。




