第14話:罠と執着
豊中の地下クラブに残された、干からびた男の指先が刻んだ『R』の血文字。
それは、相良修司という男の理性を揺さぶり、彼が唯一支配し執着する存在——高槻玲奈を標的として指名する、黒田(紅)からの宣戦布告だった。
地下クラブの凄惨な現場から引き揚げた修司は、暗がりが支配する事務所へと戻っていた。
部屋の中は静まり返っていたが、空気は重く沈み込んでいる。窓の外では、阪北の街を濡らす冷たい雨が降り始めていた。
アスファルトを叩く雨音が、まるでこれから訪れる悲劇のカウントダウンのように部屋の中に響き渡る。
「……修司さん」
部屋の隅、ソファーの上で身を小さく丸めていた玲奈が、すがるような声を漏らした。
彼女の顔立ちは青白く、いつもは豊かな女性らしさを漂わせているその佇まいも、今は恐怖と絶望によって酷く小さく見えた。
修司は無言のまま歩み寄り、玲奈の前に腰を下ろした。
「……何か、見ましたか?」
玲奈は震える唇を開き、かろうじて言葉を紡いだ。
「あの地下クラブの……現場を。黒田さんは……『紅』は、何を残していったのですか?」
心理カウンセラーとして、そして修司の恋人として、玲奈の感性はすでに怪異の意図を察知していた。
修司は冷たさを湛えた瞳で玲奈を見つめ、細く長い指先で彼女の顎を軽く持ち上げた。
指先から伝わる彼女の激しい体温の乱れと、恐怖による細かな脈打つ振動。
「お前の名前だ、玲奈」
修司の低い声が、静かな部屋に落とされた。
「あいつはお前を狙っている。俺から…奪うつもりだ」
その言葉に、玲奈の身体がびくっと大きく跳ねた。
瞳に恐怖の涙が溢れ出そうになっていた。
玲奈を引き寄せ強く抱きしめる。彼女の奥底にある狂信的な服従心が、恐怖を上回る異様な快楽となってその全身を駆け巡った。
「あ……くっ……修司さん……」
玲奈は歪む顔をそのままに、うっとりとした眼差しで修司を見上げた。
「私は……怖くありません。修司さんが私を離さないでくれるなら……たとえあのバケモノに殺されようと……」
「馬鹿なことを言うな!」
修司は彼女の言葉を遮り、さらに指先に力を込めた。
玲奈の喉から甘く短い喘ぎが漏れる。
「お前が死ぬことも、傷つくことも、俺が許さない。お前の苦痛も、お前の絶望も、すべて俺だけのものだ。あんな化け物に、…渡す気はない」
修司の言葉はどこまでも独占的だった。
玲奈は自ら修司の胸へと顔をうずめ、そのジャケットを強く掴みしめた。
「はい……はい、修司さん……。私はあなたのものです……ずっと側にいさせてください……」
玲奈の身体から放たれる甘いフェロモンと、雨の匂い、そして微かに染みついた黒田の香水の匂いが交ざり合い、密室の空気を狂わせていく。
修司は冷徹な頭脳の中で、黒田(紅)の心理を冷酷に分析していた。
黒田はなぜ玲奈を狙うのか。
それは単なる嫉妬ではないのか。
昭和初期に能勢の地で虐殺された女装の娼婦の怨念。
彼女は、自分を虐殺した「愚かな男たち」を激しく憎悪すると同時に、自分を美しく肯定してくれる「絶対的な男」の存在を狂おしいほどに求めていた。
そして、今の黒田にとって、相良修司という理知的で冷酷、かつ動じない精神を持つ男こそが、至高の獲得目標なのだろうか…。
玲奈という「修司が執着する女」を排除し、修司の心を絶望で満たすこと。
そして、その傷ついた修司を、完璧な美しさを得た『ニューハーフの美姫』として自分自身が抱きしめること。
それこそが、怨霊と黒田の欲望が融合して生み出した、狂気の終着点なのだろう…。
「……修司さん。私を……囮にしてください」
突然、修司の胸の中で玲奈が呟いた。
修司は眉を微かに動かし、抱きしめていた腕を緩めて彼女の顔を覗き込んだ。
玲奈の瞳からは先ほどまでの怯えが消え、どこか澄み切った、だが狂気に似た決意の光が宿っていた。
「何を言っている?」
「あの人は……『紅』は、私が一人になる瞬間を絶対に逃さないはずです。……このまま部屋に閉じこもっていても、恐怖は終わらない。……私を使ってください」
「ダメだ!」
修司は即座に吐き捨てた。
「お前を危険に晒すような真似はしない。何か方法はある筈だ…囮にする必要などない」
「いいえ、修司さん」
玲奈はすっと手を伸ばし、修司の頬にそっと触れた。
その手はもう震えていなかった。
「私は心理カウンセラーです。……あの人の心の中にいる『二人』の叫びが聞こえるんです。怨霊の激しい怨念と……そして、黒田さん自身の『本当の自分を認められたい』という惨めな歓喜の叫びが」
玲奈の指先が、修司の唇をなぞる。
「あの人は、私を壊すことで修司さんの心を折ろうとしています。だから……私が自ら罠にかからなければ、あの人は決して本性を現さない。……私を束縛し、支配していつも満たしてくれる…あなたのためなら、私はなんだって耐えられます」
「……玲奈」
修司の冷徹な目が、深く歪んだ。
この女の自分に対する異常なまでの依存と服従。
それは、怪異の狂気にすら抗い得る、もう一つの狂気だった。
修司はゆっくりと玲奈の頭を抱え込み、その唇に激しく、息もできないほどの深いキスをした。
少し血の味が口内に広がるほどの乱暴なキス。
玲奈はその痛みに体を震わせながら、悦びの涙を流して修司を受け入れた。
接吻を終え、唇を離した修司の瞳には、一切の迷いが消えていた。
「分かった、玲奈。お前のその狂気……俺が利用してやる」
修司はポケットからスマートフォンを取り出し、中垣内の番号を呼び出した。
「中垣内さん……俺です」
『修司か。こんな夜更けにどうした?』
電話の向こうで、疲れ切った中垣内さんの声が響く。
「決着をつけませんか?……罠を仕掛けます」
『なに……? 罠だと?』
「黒田……『紅』を誘い出します。場所は阪神間の境界、川西の古い廃工場です。……玲奈を、囮にします」
『おい、正気か修司!? 玲奈ちゃんをそんな危険に晒すなんて——』
「警察の力だけでは、あの怪異は殺せません。射殺許可が出ているなら、現場に特車を待機させてください。…俺が『紅』の意識を完全に玲奈へ集中させた瞬間………仕留めて下さい」
電話の向こうで、中垣内さんが息を呑む音が聞こえた。
長い沈黙のあと、重苦しい声が返ってくる。
『……分かった。だが修司……もし玲奈ちゃんに万が一のことがあったら、俺はお前を許さんぞ!』
「そんな事は起こさせない。俺の計算に狂いはない」
通話を切ると、修司は静かに室内を見渡した。
雨はますます激しくなり、ガラス窓を打ち叩いている。
黒田慎一という友の死と変貌。
高槻玲奈という女の狂信的な愛。
そして、相良修司という男の冷酷な計算。
全ての駒は盤上に揃った。
阪北の街を紅く染め上げた連続失踪惨劇は、逃げ場のない夜の廃工場へと収束していく。
「行くぞ、玲奈」
「はい……修司さん」
ふたりは固く手を重ね合わせ、雨の降り頻る夜の闇へと足を踏み出した。




