第12話:紅い覚醒
黒田の日記を手に入れたその夜。
俺は尼崎と豊中の境界に位置する、廃棄された水門の近くに立ち尽くしていた。
日記の裏表紙に、口紅で小さく残されていた地図と時間。
あいつは俺を指名して呼んでいた。一人で来い、と。
湿り気を帯びた夜風が、神崎川の水面を揺らす。
川沿いの街灯がチカチカと明滅する中、漆黒の闇の奥から、カツン……カツン……と甲高いハイヒールの音が響いてきた。
「……遅かったじゃない、修司」
闇の中から現れたその姿に、俺の冷徹な脳すら一瞬、息を呑んだ。
そこにいたのは、かつて一緒に酒を酌み交わした男くさい相棒ではなかった。
深くスリットの入った漆黒のベルベットドレスを纏い、豊かな豊満さを感じさせる身体つき。
首元には大粒の真珠のネックレスが光り、短かったはずの髪は艶やかな黒髪のロングウィッグへと変わっている。
そして、その顔面——
完璧なまでに施された極彩色のメイク。
白く塗られた肌に、切れ長な目を強調する濃密なアイライン。
厚く塗られた真っ赤な口紅が、街灯の光を反射して怪しく濡れていた。
「……黒田」
俺が低い声で呼ぶと、黒田は可憐に首をかしげ、クスッと可笑しそうに笑った。
その仕草も、眼差しも、完全に妖艶な女のそれだった。
「その名前で呼ばないでって言ったでしょう? 今の私はね……紅よ。……ふふ、綺麗でしょう、修司?」
黒田(紅)はゆっくりとこちらへ歩み寄り、ドレスの裾をふわりと揺らした。
大柄な身体から放たれる圧倒的な存在感と、常軌を逸した艶やかさ。
怨霊の怨念と、ニューハーフとして覚醒した黒田自身の「快楽」が融合し、怪異としての格を跳ね上げさせていた。
「昔の鈍臭い『男の自分』なんて、もうどこにもいないわ。……男の身体のままで、誰よりも美しい女として生きる……。こんな最高な快感、もっと早く知るべきだったのよ」
黒田(紅)は指先を俺の頬へ伸ばしてきた。
その長くなめらかな爪には、真っ赤なマニキュアが塗られている。
「ねえ、修司……。あんたのその冷たい目……たまらないわ。私を化け物を見る目で見ている……でもね、その奥に潜む狂気を、私は知っているのよ」
「……言いたいことはそれだけか、黒田」
俺は表情ひとつ変えず、冷たく言い放った。
「お前が何になろうと勝手だが、これ以上は止めろ。中垣内さんも、警察もお前を追っている」
「警察……? あんな豚どもに、私を捉えられるわけがないでしょう」
黒田(紅)は急に表情を冷やし、甲高い声で嘲笑った。
「あの男たちの先祖はね、私を惨死させたのよ。女として生きたかっただけの私を、汚い言葉で罵り、暴行した挙げ句…井戸へ投げ捨てたの! ……だから復讐するの。一人残らず、身体中の水分を絞り出して、惨めな姿で殺してやるわ」
「そのために、黒田の肉体を奪ったのか」
「奪ったんじゃないわ。この子が……黒田が望んだのよ!」
黒田(紅)は自分の胸を強く抱きしめ、恍惚とした表情で天を見上げた。
「この子はずっと抑圧されていたの。『男らしく』いなきゃいけないって縛られていた……。でも私と出会って、本当の自分に目覚めたのよ! 今の黒田はね、私として生きる快感に震えているわ!」
狂気だ。
怨霊の呪いだけなら祓いようもある。だが、宿主である黒田自身がこの変貌を「歓喜」として受け入れてしまっている。
だからこそ、この怪意は急速に力を増しているのだ。
「……修司。あんたは特別よ」
黒田(紅)は突然、顔を俺の至近距離まで近づけてきた。濃密な白粉と高級香水の匂いが、俺の鼻腔を激しく麻痺させる。
「あんたのあの地味な女……玲奈だっけ? あんな女じゃ、あんたの本当の飢えは満たせないわ。……私を抱いてみなさいよ。」
湿った赤い唇が、俺の耳元で淫らに囁く。
俺は無言でポケットの中のカメラのフラッシュを、黒田(紅)の目の前で焚いた。
バシャッ!!
強烈な白光が夜の闇を切り裂く。
「きゃああっ!?」
黒田(紅)は不快そうに顔を覆い、ハイヒールを鳴らして数歩後退した。
「……相変わらず無粋な男ね、…修司」
視力を奪われた黒田(紅)は、激しい殺気と濡れた視線を俺に投げかけた。
「いいわ……次はあんたの大切なものを奪ってあげる……。あの女の顔も、私みたいに真っ赤に染めてあげるわ!」
黒田(紅)はドレスを翻すと、水門の影へと跳び移り、恐ろしいほどの躍動感で夜の闇の中へ消えていった。
あとに残されたのは、強烈な白粉の匂いと、川のせせらぎの音だけだった。
俺はカメラを握りしめ、冷たく眩暈を覚えた。
相棒の完全な覚醒と、玲奈へと向けられた殺意。
逃げ場のない決戦が、近い事を感じていた…




