第11話:相棒
尼崎の凄惨な現場から数時間後。
俺は一人、豊中にある黒田のアパートへと再び足を運んでいた。
立ち入り禁止のテープは警察によって剥がされていたが、住民たちは気味悪がって誰も近づこうとしない。
階段を上り、黒田の部屋の前に立つ。
鍵は壊されたままだ。ドアをそっと押し開けると、あの目も眩むような濃密な白粉と甘い香水の匂いが、津波のように押し寄せてきた。
「……酷いな」
俺は思わず呟いた。
かつてガサツな男の一人暮らしらしく、スポーツバッグや雑誌が無造作に散らかっていた部屋は、完全に異質の空間へと変貌を遂げていた。
壁には一面、赤や紫の口紅で狂気じまった文字や、不細工な男の顔の落書きがびっしりと書き殴られている。
『死ね』
『愛して』
『汚い豚ども』
相反する感情の言葉が、血のような赤で部屋中を埋め尽くしていた。
俺は足元に転がる衣服を押しのけ、部屋の奥へと進んだ。
クローゼットの扉が開け放たれている。
そこに並んでいたのは、男ものの服ではない。
フリルやレースがふんだんにあしらわれた、絢爛豪華な色彩の高級ドレス。
そして棚には、何十種類もの女性用化粧品やウィッグ、高級な香水の瓶が整然と並べられていた。
「……完全に『彼女』の部屋だな」
俺は静かにカメラを取り出し、部屋の細部をレンズに収めていった。
趣味であるカメラのファインダー越しに見る狂気は、より一層冷酷に俺の脳裏に刻まれる。
その時、背後で足音が響いた。
「手際がいいな、修司」
振り返ると、ドアのフレームに中垣内さんが佇んでいた。
その表情はいつにも増して硬く、観察眼の鋭い瞳が俺と部屋の惨状を交互に捉えている。
「中垣内さん……」
「上から通達があった。……尼崎の事件、現場に残された指紋や防犯カメラの解析から、容疑者として黒田慎一の全国指名手配が決定した」
中垣内さんはポケットに手を突っ込んだまま、静かに宣告した。
「怪異だの怨霊だのという説明は、本部の偉いさん方には通用せん。黒田は現在、連続猟奇殺人犯だ」
「……警察としては、当然の判断…ですね」
俺が冷静に返すと、中垣内さんは少し眉をひそめた。
「お前は悔しくないのか、修司。長年の相棒が、こんな化け物扱いされて指名手配されたんだぞ」
「悔やんでも事態は変わりません。俺たちの仕事は、事実に目を背けず、終わらせることだ」
俺の冷徹な言葉に、中垣内さんはふっと力なく笑った。
「相変わらず冷めた奴だな……。だがな、修司。お前にも疑いの目が向いている。黒田と直前まで行動を共にしていたフリーライターとしてな。これ以上、勝手な単独行動は慎め」
「善処します」
中垣内さんが去った後、俺は黒田のデスクの引き戸を開けた。
そこには一冊の皮塗りのノート——黒田の日記帳が残されていた。
ページをめくると、最初のページには黒田の力強い男らしい筆跡で取材メモが記されていた。
だが、物語の中盤……あの池田の古美術商の家へ行った日を境に、筆跡が劇的に変化していた。
細く、しなやかで、どこか艶っぽい流れるような女の文字。
『今日、鏡を見た。私の中に眠っていた美しい私が、私を呼んでいる。修司は冷たい目をしていたけれど、本当は私に魅了されているのよ。男の皮を脱ぎ捨てる快感……もう… ーあの鈍臭い男ー には戻れない』
最後のページには、狂おしいほどの情念でこう締めくくられていた。
『私は覚醒する。最高に美しく、可憐で、残酷な女として。……楽しみに、待っていてね 修司』
ノートを強く握りしめると、紙面から甘い香水の匂いが立ち上った。
黒田の魂は、怨霊の怨念と「新しい自分」という魅惑の快楽に侵され、完全に融解してしまったのだ。
あいつはもう、助けを求める被害者ではない。
己の美と狂気に酔いしれる、一人の凄絶な怪物だった。




