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秋風香る珈琲の月 ~宇佐美 蘭~

立て付けの悪い窓の、いつも以上にガタガタと引っかかる振動を感じて、窓枠の上部を確認する。

「これ、またどこか傾いたなぁ?」

この小さな1Kのボロアパート。

6畳の部屋の畳は、古くて薄茶色く変色し、黄土色の土壁はあちらこちらが剥がれ、ヒビも入っている。

一人分の最低限の衣類が入るだけのタンスと、小さな古びたテレビ。

漫画や旅行誌、風景写真集、小説と趣味が雑然と詰め込まれた本棚があるだけの、女子力も何もない地味な部屋が私の城だ。

そんなくたびれた部屋の真ん中にある丸机に珈琲と、帰りがけに買った本を置いて、お気に入りのふかふかのうぐいす色の座布団に腰を下ろす。


この部屋の一番のお気に入りは、座布団だ。

長時間本を読む私のお尻を守ってくれるこれは、とても重宝している。

多分、このボロ屋が火事になったとしたら、スマホよりもこの座布団を先に引っ掴んで逃げる気がする。

それ程の物なのだ。

――まぁ、私にとったらスマホは1番優先順位が低いけど。

 

珈琲の入ったマグカップに口を付け、スマホは後ろに積み上げてある布団の方へと放り投げた。

それともう1つ、こだわりがあるとすればこの部屋にはカレンダーと時計が無い。

スマホがあれば事足りると言うのもあるが、何かに追われている気がして、私にとってはプライベートでは必要のない物なのだ。

3階建てアパートの庭の、好き放題に伸びまくる草むらあたりで、ギーギーと虫が秋の夜を彩る声に耳を傾け、時折ふわりと流れ込んでくる晩秋のさらりとした夜風が、風呂上がりの火照った頬を優しく撫でる。


「疲れおやじの気まま旅~第2章 福井編~」というタイトルと、どこかの森のレトロな喫茶店が表紙になっている本だ。

秋に撮られたものらしく、緋色に染まる森の喫茶店がとても美しい。

50のおじさんが自由気ままに旅しながら様々な出会いや、要所要所に写真なんかも載せられたエッセイ。

先日、何気なく買ったこの第1章の本がいたく気に入り、早々に読み終えた私は仕事帰りに本屋に走って2冊目を購入してきたのだった。


「喫茶うみねこ」というらしいそのお店は、セピア色の壁にボルドーのソファ、飴色の柔らかな光を灯すランプ。

そんなレトロな店内の様子とはうらはらに、若い男性が店主のようだ。

ぴしっと糊のきいた白いシャツに黒い蝶ネクタイ。

同じく黒のベストを着た彼は、私とそう変わらない年齢らしい。

ショパンの曲が流れる小さなお店で、ちらほらと訪れるお客さんと、日々の自然の移ろいを感じ、こだわりの珈琲や軽食を楽しむ。

お客さんたちの、とても穏やかな微笑んだ写真に、私の頬も思わず緩む。


「良いなぁ。素敵」

思わず溢れる声は、しんとした夜の部屋で霧散する。


著者は50代半ばでバリバリに働いていた大企業を早期退職したおじさんだ。

仕事に、人間関係に、慌ただしい日常にほとほと疲れてしまったという点でとても共感し、同時に立派な肩書もさっぱりと置いて仕事を辞めて、自分のやりたい事に打ち込むその精神力と度胸は尊敬する。

更にはそれをこうして仕事に出来ているのだから、最早嫉妬なんてものは抱くレベルを超えていた。

何も特別では無い。だけど、まだ見たこともないような日常にある景色を見せてくれるこのおじさんのエッセイに、私はどっぷりと嵌っているのだ。


私は昔から、死や生について深く考えてはついつい思い悩んだりしてしまうところがある。

あまりこういう事を考え出すとキリが無くなるのだが、それでもこうして1日の終わりになると、夜空を眺めたり、布団の中で暗闇の天井を眺めていたりすると、ぼんやりと考えてしまう。

父親を幼い頃に仕事中の事故で亡くした私は、葬儀の時に憔悴し、抜け殻のようになった母の隣ではどうしても泣けず、隠れるように1人廊下で泣いていた。


そんな時に、8つ上の姉が母の元を離れ、私を追いかけてきてそっと抱き締めてくれたのだ。

今は遠い幼き日を思い、温かい珈琲に口をつける。

安物の珈琲だが、今の私の心の不安定な部分をそっと優しくあたためてくれた。


再び本のページに視線を落とした時、心落ち着く鈴虫達の恋歌を掻き消すように、スマホが音を立てて震えた。

“小村ともみ”

思わず溜め息が漏れる。  


「あ、蘭おつかれーっ」

いつもの様にはつらつとした声に、こちらもできる限りの明るい声で返す。

通話画面でスピーカーにし、本のページに栞の紙を挟んで珈琲の隣に置いた。

「ねぇ蘭、新しいバイトどう?今日で何日目?」

「3日目だよ。期間限定のバイトだし、多少嫌でも頑張るつもりだよ」

「そっかー。運送会社の仕分けでしょ?コールセンターも掛け持ちしてるんだっけ?キツそうだよねー。ねね、良い男いないの?運送会社なら良い体の男多そうじゃん」

「さぁ。あんまり周りの人の体なんて見てないからわかんないよ」

心の中でため息を1つ漏らし、少しぬるくなってきた珈琲を飲んだ。

「てか、麻友ちゃんっていたでしょ?23歳の。蘭が辞めるってなった時、引き継ぎした新人の子よ。もうさぁ、全然使えないの。話し掛けても声小さいし陰気臭いし。場の空気が暗くなるっていうかさぁ」


--あぁ。始まった。

ともみは、暇さえあればこうしてすぐに人の悪口を言う。

周りに毒を撒き散らすのだ。

同じ部署の同僚で無ければ、関わりたく無いくらいだが、あろうことか仕事を辞めてもこうして時々電話を掛けてきては毒を電話越しに撒いてくる。

「そういうの止めなって。声が小さいとかだって、本人なりに悩んでるかもしれないでしょ。そういう事言ってる時の人の顔って、すんごいブスなんだよ」

「でたー!蘭のお決まりのセリフー」

そんな私の言葉を屁とも思わないともみに、けらけらと笑い飛ばされるのだった。

「そんで、麻友ちゃん彼氏いるんだってー。更衣室で指輪外してたから聞いてみたの。写真見せてもらったら、まぁ似たもの同士っぽくてさぁ!」

ともみの吐く毒に、私の心の中にずんと重く暗い色の絵の具が渦巻いていくのを感じた。


--せっかく良い気分でいたのにな。

「疲れおやじの気まま旅~第2章 福井編~」のゆるやかで長閑な表紙が、今の私の心境と相反して手に取ることすら躊躇われる。

ともみの一方的に吐かれ続ける毒に「そうなんだ」「へぇ」とだけ返す時間が15分続き、最後にともみは吐き尽くした毒に満足したように


「いっぱい喋ったらすっきりしたわぁ!じゃあ、また!おやすみー」

と、これも一方的に電話を切ったのだった。

スマホの電源を落として布団に放り投げ、マグカップに残った冷え切った珈琲を喉に流し込む。

「うぇ。苦い」

まるで、ともみが残した毒のように、刺々しい嫌な苦味だけが喉に残り続けていた。



「あら、宇佐美さん。いらっしゃいませ」

「どうも。こんにちは」

午後4時。

いつもより遅めにれんげ草の扉を開けると、いつも真っ先に出迎えてくれる、うさぎのようなくりくりな瞳を輝かせる看板娘のみーこちゃんはおらず、窓辺の観葉植物に水をやっていたらしい腰をかがめた店主の美鈴さんが穏やかな声で迎えてくれた。


1メートルほどになるその木は、確かパキラと言っただろうか。

美鈴さんが以前教えてくれたそれは、幸福の木とも呼ばれるものらしく、梅雨あたりから少し変わった形の花を咲かせるらしい。


ボート型をした葉が中心部から放射状に広がり、夕方の淡いオレンジ色の日光を浴びて、艶めいている。

穏やかな木漏れ日の森を思わせるような、軽やかでささやくような優しい歌声が、店に流れていた。


「これ、新メニュー?」

お水とおしぼりを持ってきてくれた美鈴さんに、メニューの1ページを開いて見せた。

手書きで「スイートポテト」「大学芋」「さつまいも羊羹」と書かれたピンクの付箋が、スイーツのページに貼られていたのだ。

私が尋ねると「あぁ、それは」と、夕陽のせいか白い頬をほんのりと赤く染めた彼女が微笑んだ。

「今朝、みーこちゃんが商店街で仲良くなったおばあさまから沢山さつまいもを頂いちゃって。他のお客様にもお出ししたんですけど、まだまだ余っているんですよ」

すると「実はこちらにも・・・」と、美鈴さんがめくった手前の食事のページにも、水色の小ぶりな長方形の付箋に「さつまいもご飯」と書かれてある。

恥ずかしそうに頬に手を当てて笑う美鈴さんは、女の私が見ても思わず見惚れてしまうくらい、透明感が凄い。


「何にいたしましょう?」

あまりにじっと見てしまって、美鈴さんが首を傾げたので、慌てて手元のメニューからホット珈琲と、スイートポテト、大学芋も注文した。

「まぁ、お2つも召し上がってくださるのですか?ありがとうございます。では、珈琲と一緒にお持ちしますね」

そう言って、頭を下げてからキッチンへと入っていった。


美鈴さんが、アンティークの手回しミルで珈琲豆を挽く音が、この穏やかな優しい空間に心地良い。

昨夜読みかけていた「疲れおやじの気まま旅~第2章 福井編~」を開く。

喫茶うみねこの写真から感じ取れる空気感は、どこかこのれんげ草にも似ている。


優しい店員さんと、あたたかく包み込むような雰囲気のお店。

慌ただしい世の中から、ひっそりと隔離したような場所。

美鈴さんは、挽いた豆を手際よくサイフォンで抽出している。

不思議なことに、ともみから吐き出された毒が身体中に巡って心に重苦しくのしかかっていたが、この店のドアを開け、鈴の音を聞き、ここに座っているだけで、その毒がじわじわと身体から抜けて浄化されていく気がするのだ。


毒気を抜くのはこの店内の雰囲気だけではない。

窓の向こうでは、夏には瑞々しく青く茂っていたポプラが、今では見事に黄葉しているのだ。

夕陽を浴びた葉は、キラキラと黄金色に輝きながら風に揺れている。

その後ろに広がる水色とレモン色の混ざった夕空には、銀に縁取られた雲が朱く染まってたゆたっていた。

白いカーテンをふわりと膨らませて流れ込んできた、涼しい秋の風を吸い込んだ時、美鈴さんがお盆を手にやって来た。


なめらかな舌触りの、さつまいもの味を生かした優しい甘さのスイートポテトは、秋のふかふかの土の香りやぬくもりを感じる。


スイートポテトを一口食べ、芳醇な香りを含む湯気を立ち上らせた珈琲を口に含む。

優しい甘さに、珈琲のまろやかな苦味がうまく調和されて、互いを引き立てるのだ。

「美味しい」

私のその一言に、美鈴さんがにっこりと微笑むと「ごゆっくり」とキッチンへと戻っていった。

スイートポテトと珈琲をゆったりと楽しんだあと、持ってきた本を開き、行ったことの無い喫茶うみねこへ、脳内をトリップさせる。


きっとその喫茶店もこのれんげ草の様に、来る客を癒やしているのだろう。

豪華なもてなしをされるわけでも、珍しい料理があるわけでもなく、高価な飾り付けがあるわけでもない。

木々のぬくもりを感じるインテリアに、真っ白のカーテンが揺れる。

パキラが日光を浴びて鮮やかな緑を添える。

シンプルな窓枠の向こうでは、大きなポプラが10月の終わりの澄んだ風に揺らめき、さわさわと奏でる葉擦れが心地良い。

素朴な、見慣れた料理がとても心に沁みる。

美鈴さんの優しさが月明かりのように癒やし、みーこちゃんの明るさが私の心の暗い部分を照らす太陽。

私にとって、いつからかここはそんな場所になっていたのだ。


それからも私は、大学芋と、新しく美鈴さんが淹れてくれた温かいお茶を頂きながら、柔らかい風を感じていた。

「美鈴さぁん!」

お会計を済ませて玄関に向かおうとした時、閉じたままのドアの向こうからみーこちゃんが急かすように呼ぶ声が聞こえてきた。


「あらぁ、まぁまぁまぁ」

様子を見に行った美鈴さんの声に、思わず私も見に行ってみると、みーこちゃんの足の甲にお腹を乗せるようにして、三角の耳を後ろに倒した薄茶色の中型犬が目を細めている。

「私が帰ってきたら、お店の前に座っていたんです~。よしよししたら、私の足に乗っかっちゃって動かないんですよぅ」

完全にくつろぎモードなその犬は、てっぺんに白い点がひとつある湿っぽい鼻をひくつかせながらみーこちゃんの頬を舐めた。

「ひゃあぁ!あははっ!」

身体をのけぞらせながらも嬉しそうにはしゃいでいる。

「もしかして、野良犬?」

毛並みもお世辞にも綺麗とは言えない。

首輪が無いのもあるが、その体の汚れ方が雨風に晒されてきたことを物語るようだった。

よく見ると爪も伸びている。


「あっ!」

おもむろに立ち上がった犬に、私は思わず声を上げた。

痛々しく後ろの左足を折り曲げたまま立ち上がったのだ。

かばうように残りの3本の足でその身体を支え、口角を上げて黒い澄んだ瞳でこちらを見上げる。

「まぁ、あなた足が・・・。みーこちゃん、この子の足を洗ってあげて。爪も切ってあげましょうね」

「あ、私も何か手伝うよ」

「いえいえ、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」

美鈴さんがそう言う足元を、みーこちゃんが野良犬を自分の肩に抱えるようにして横切って店の中へと入っていった。


「あ、そうだ。えっと、西野君って・・・」

「西野さんですか?」

「あれからどうしてるのかなって・・・?前回、急に話しかけちゃって、困ってたし。私も勝手に帰っちゃったしで」

実は、つい勢いで声を掛けてしまった事を後悔していた。

彼にとってあの頃の記憶なんて、思い出したくないものだということくらいわかっていたのだから。

「今朝もいらっしゃいましたよ。彼もスイートポテトを喜んで召し上がってくださいました。あ、いけない。クッキーお渡しするの忘れてました。ちょっと待っててください」

そうしてパタパタとキッチンのカウンターに置いてあった小さなカゴから、綺麗にラッピングして青色のリボンで結ばれたクッキーを手に戻ってきた。


「これからサービスでお客様にお帰りの際にプレゼントすることにしたんです。来てくださったお礼です」

ミルクチョコが挟まれたラングドシャが5枚入ったそれを私の手のひらに乗せた美鈴さんは、三日月にした目で微笑んだ。

「西野さんね、宇佐美さんに感謝していらっしゃいましたよ。今朝来たときに言ってらっしゃったんです。荒んでいた辛い時期に、優しさを向けてくれた人だったって。自分はその優しさに気付けなかったって」

私と美鈴さんの間にふわりと通り抜けた風が、美鈴さんの頬にかかる髪を揺らす。

 

白く、ひんやりとした細い手がクッキーを持つ私の手をそっと包んだ。

「また、いつでもいらしてください。私は皆さんがここに来て笑顔になってくださる事がとても嬉しいんですよ」

すると、美鈴さんは「あっ」と私の後ろを指差した。


夕焼け空だ。

暮れ始めた濃い青の空に、秋らしいうろこ雲が柿色に染まっていた。

沈みゆく赤い夕陽が山を縁取り、太陽を背にした山々は暗色に染まっている。

「綺麗ですねぇ」

見上げた空には、カラスが一羽悠々と飛び去る。


私は息を呑んだ。


飛び去ったカラスの後ろに、真っ白のカラスが追うようについて行ったのだ。


「子供、かしら。お母さんは気付いていないみたいだったけれど」

「えっ」

「宇佐美さんも見えるのでしょう?」

そうだ。

白いカラスは、死んだ子供カラスなのだろう。

私は物心ついた頃から、人では無いものが見えることがある。

だけど、それは嬉しい事ばかりではなかった。


「見えるけど・・・本当に見たいものは見えないのよね」

遥か先の空に点となる2羽のカラスの背に呟いた。



「んー。やっぱり立て付け悪くなってる」

入浴後、相変わらずガタガタと上下に揺れながら動く窓を開け、夜の風を部屋に入れる。


秋虫が鬱蒼とした草むらで奏でる秋の音も一緒に入ってくる。

うぐいす色の座布団を窓辺に置いて、どさりと腰を下ろした。

窓辺に運んできた丸机に、淹れたばかりの白い湯気が揺らめく珈琲のマグカップを置き、100均ショップで買った白い角皿に美鈴さんに貰ったラングドシャを並べて一息吐く。

珈琲を口に運ぼうとして、布団に放ってあったお知らせランプが点滅するスマホが目に入り止めた。


いつもの変わらぬともみからのLINEに返信する。

一文字一文字打ち込む間、静寂の時が流れる。

私の心は昨夜とは違って穏やかそのものだ。


スマホを机に伏せる。

今度こそ珈琲を口につけ、まだ温かい苦味が喉を伝い、身体をじんわりとあたためた。


ラングドシャがほろりと口の中で崩れ、まろやかなミルクチョコが舌に広がる。

ともみはどんな反応をするだろう。

また笑い飛ばされるだろうか。

『人の悪口を言っている時の顔はとっても醜いのよ』

幼い頃の姉の言葉が脳内に蘇る。

『人の欠点を見つけるより、良い部分を見つけられる人になるの。自分に無いものを持っている人に出会える事って、すごく素敵な事なのよ』

伏せたままのスマホを見つめ「お姉ちゃん」と呟いた。


--あの時、西野君の力には全然なれなかった。絵も、結局辞めちゃったって言ってたし・・・

視線を落とした珈琲の水面に、半月が揺らめいている。


見上げると、黒く塗られた夜空に、下弦の月か浮かんでいた。



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