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秋風香る珈琲の月 ~西野宗介~

乾いた夜風が、坂道を駆け上って髪をかすめてゆく。

頭上には、虹色の彩雲に透ける半月が浮かんでいた。

疲れ果てた肩に、仕事着の入った鞄の紐がずしりと食い込む。

ゆるやかに続く下り坂を踏みしめる足を止め、深いため息をついた。


--何やってんだろうなぁ 

今朝れんげ草を訪れたばかりなのに、もうあの場所が恋しくなっていた。

あの店に通うようになって、日々の疲れやストレスが癒やされる一方、自分の人生についても今までより考えてしまうようになった。

もちろんそれは悪いことでは無いのだろうが、現実に戻ると一層これで良いのかと自問自答するようになったのだ。

鞄をおろし水筒を取り出し、僅かに残っていた冷めきったお茶を一気に飲み干す。

「あ。あそこって」

眼下の、駅に向かう通りから外れた、細い路地に入った場所に見える白いマシンション。

宇佐美が住んでいたマンションだ。

--そういえば、あそこの公園って・・・

その時、すっかり記憶の彼方に隠れてしまっていた高校2年の夏の思い出が鮮明に蘇った。



「ねぇ。何でもっと堂々としないの?」

教室を出てからずっと付いてくるクラスメイトの宇佐美が、苛立っているのか、心配するあまりの語気の強さなのかわからない口調で俺の背中に投げかけた。


これで4日目だ。

学校が終わると、電車で僕が降りる駅まで、しつこいくらいに着いてくるようになった。

今だってこうして駅のホームで電車を待つ僕の後ろで、怖い顔をして腕を組んで立っている。


「あのさ。僕に話しかけない方がいいよ。こんな所誰かに見られたら君も虐められるよ」

夏の陽射しがサンサンとホームに降り、額に玉の汗を滲ませ、首に流れてシャツの襟に染みを作る。

「関係ないよ。それに私は虐められるようなことしてないじゃん」

「だから、僕なんかと話してること自体がネタにされるって事だよ」

宇佐美に背を向けたまま答えると、彼女は「ふぅん」と興味なさそうに鼻であしらった。

「じゃあさ、うちのマンションまで来てよ。うちのあたりに住んでる生徒、クラスにいないんだよね。西野君の降りる駅から3つ先だから。私のことそんなに心配なら離れて歩いてくれて良いからさ。そこの公園で話さない?」

宇佐美の唐突な提案に思わず振り返ったとき、ちょうど電車がホームに入ってきた。

電車の勢いに吹き上げた風が、宇佐美のスカートを持ち上げようとしてそれを彼女が咄嗟に手で抑え、僕は目を逸らした。


「見た?」

「見てないよ。目を逸らしただろ」

「見たね、絶対見えたよ。はい、罰としてついてきてもらいまーす」

「は?ちょっ・・・」

--離れて歩いていいと言ったくせに!

僕の左腕を掴んだ宇佐美は、そのまま電車に乗り込んでしまった。


宇佐美のマンションは、駅から10分ほどの住宅街の中にあった。

7階建ての結構古いらしい白い外壁は、ところどころ補修されたヒビの跡があり、正面ドアの上に取り付けられたフォレストメゾンとお洒落な字体で書かれた銀色のパネルが、夏の陽射しを眩しく反射している。

正面玄関の脇を抜けてマンションの外壁に沿うように左周りにぐるりと裏へと回ると、錆が目立つブランコと滑り台、小さな砂場がある公園があった。

電車からずっと腕を引かれたままの手首に、僕のものか宇佐美のものかわからない汗が滲む。


「はい。座って」

公園の隅に置かれた丸太を半分に切ったベンチに腰を下ろす。

ようやく彼女の手も離れた。

公園を囲む青々と茂った木々から、シャンシャンと鳴き喚く蝉の声が僕たちに降り注ぐ。


「ねぇ、西野君てさ。絵上手だよね」

「別に、好きだったけど・・・。最近はそうでもない」

「もー。あれでしょ?井川達が騒いでるから?駄目だよ勿体ないじゃん!もっと堂々としてればいいんだよ。悪いことしてないんだから!」

宇佐美がやたらと強い口調で、駅での会話とほぼ同じ事を言うものだから、正直少しうんざりする。

--僕が虐められたり、絵を嫌いになったり、宇佐美には関係ないじゃないか。

どろどろとした感情が、胸の中に渦巻くのを感じながら、宇佐美の視線から顔を逸らすように地面を見つめるしかなかった。


「ねぇ、学校嫌い?他に好きな事ってある?」

--めんどくさい。

大体、今までで大して喋った事もない僕に、何で急にこんなに馴れ馴れしく話してくるようになったのか全く検討もつかない。

「嫌い。それに、他に好きな事なんて無い。・・・もう帰ってもいいかな」

僕は言い切る前に立ち上がり、宇佐美に背を向けて肩からずれたリュックを背負い直した。

「待ってよ!」

宇佐美が歩き出そうとした僕の腕を掴んだ。

「・・・何。もう、ほっといてくれないかな」

眉間にシワを寄せて怒っているような、だけど心なしか瞳に涙を浮かべているような。

唇を噛み締めて、宇佐美がこちらを真っ直ぐに見つめていた。


「ねぇ、何か私にできることって無いかな?」

絞り出すように宇佐美が言った。

その真意がわからず、僕は一言「無いよ」とだけ呟いて宇佐美の腕を強引に振り解いて駆け出した。


追い掛けてくるだろうか。

僕は追い付かれないように、駅に向かって走り続けた。

駅が目前に見えた頃、ふと振り返ってみたが宇佐美の姿はなかった。


大きな入道雲を背にした駅に向かって、息を整えながら歩く。

『頑張ってよ!私も頑張るから!』

走り出した僕の背に、最後に宇佐美が叫んだ意味のよくわからない言葉が頭の中に反響する。


--何なんだよ。ったく・・・。

額や首筋からは汗が流れ、シャツが背中にぺったりと張り付いていた。




「まさか、また会うことになるなんてな」

あの日以来、宇佐美から声を掛けられることは無かった。

彼女は変わらず男女関係なく友人に囲まれていたし、陸上部だったらしい宇佐美は大会で良い成績を残したりと、僕とは掛け離れた輝かしい青春を過ごしていたようだった。


対して僕は、教室内では極力目立たないようじっとして過ごし、休み時間になると図書館で本を読んで過ごすという、何の刺激もない生活を繰り返していた。


幸い高校2年の終わりには、クラスメイトも飽きてきたのか虐めも無くなっていたのが救いだったが、絵に関してはまた描き始めていたものの、色々あって辞めてしまったのだ。


--帰ろう。

古いマンションは住人が少ないのか、ぽつりぽつりと明かりが灯っている。


その時、ふと再び歩き始めた足を止めた。

『頑張ってよ!私も頑張るから!』

宇佐美の最後の言葉が蘇る。


--いや。流石にそれはないか。

薄雲に隠れて星の見えない夜空の下でゆっくりと深呼吸してから、家路を急いだのだった。


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