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空蝉に願う~西野宗介~

ひと口かじると、スイカの瑞々しさとさっぱりとした甘さが口の中に広がる。

窓は開け放たれ、盛夏の濃い緑の匂いを乗せた風が真っ白のカーテンをぱたぱたと不規則にゆらしていた。

この店は、ポプラの木材を使った内装らしく、全てが黄白色だったりと、とても柔らかい色合いで纏まっていて、窓際に置かれた植木鉢の観葉植物が鮮やかな緑を添えている。


そのすぐそばのテーブルに座る僕の席からは、蜃気楼でゆらゆらと揺らぐ路地裏商店街を行き交う人々がよく見える。

と言っても、この店はその通りの一番奥、つまり突き当りにあって、隣も向いの店も随分昔に閉店しているので、ここまで人が流れてくることはなく、静かな空間で過ごすことができる。

名前も知らない歌手の、ささやくようなボサノバの爽やかで優しい歌声が、この店のふんわりとした不思議な雰囲気によく合っていて、小説の余韻に浸りながらも、時折その歌声に心を休めたりするのが秘かな癒やしだったりもするのだ。


「何かお飲み物をお持ちしましょうか?お茶とお水は無料ですよ~」

毛量の少ないサラサラの髪を耳の上でツインテールにした、ピンクのエプロン姿のみーこちゃんが木製のお盆を抱えて、今しがた飲み終えたミックスジュースのグラスを下げに来た。

「じゃ、じゃあ・・・麦茶でお願いします」

「はぁい!」

――あぁ、またボソボソとした喋り方をしてしまう

だが、そんな聞き取りにくい僕の声にも嫌な顔ひとつせず深々と一礼した彼女は、ぱたぱたとキッチンに戻っていった。


その先では、店主の美鈴さんが新しいグラスに氷を入れて麦茶を注いでいるところだった。

あんなに離れた場所からも聞こえていたのだろうか。

僕はテーブルに伏せていた小説を、スイカの水分が飛んで汚れないように、更に隅へと追いやる。 

スイカなんていつ振りだろう。

ふとそんな事を考えたが、古い記憶を掘り起こそうとするのを、僕の心が拒んでしまう。

そんな陰気な僕の座るテーブルにも、夏の午後の強い日差しは暖かな光を落とし込んでいた。


「麦茶です!ごゆっくりどうぞ~」

「あ、ありがとう」

それからみーこちゃんは、お盆をキッチンに戻し、一度奥の部屋に入って、何やらノートと銀色の大きな薄いケースを抱えて、カウンター席によじ登った。

僕に背中を向ける形で座っているためよく見えないが、絵でも描いているようだ。

どうやら銀色のケースは色鉛筆らしい。


商店街を行き交う人々は額や首筋に汗を滲ませているが、不思議とこの店は窓を開け放っているだけというのに、汗ばんだりすることもなく快適に過ごせている。

時折、南部鉄の風鈴が儚い音を奏で、僕の目の前には食べかけのスイカと、氷がたっぷり入った麦茶。

カランと音を立ててグラスにぶつかるそれも、また何とも夏らしいと思った。


「実物を見ながら描くと良いんじゃないかしら」

美鈴さんの透き通るような、落ち着いた声が聞こえたのは、丁度スイカを食べ終えて、おしぼりで手を拭いていた時だった。

「でも、今は――」

「ぼ、僕のことは気にしないでください」

なんの事かよく分からないが、慌てて二人の話に割って入ってしまった。

急に喋ったものだから、声がひっくり返ってしまい、すぐに俯いてしまう。

そんな自分に、つくづく嫌気が差す。

「西野さん、ありがとうございます。いいのよ、みーこちゃん。今は私一人でも大丈夫だから。いってらっしゃいな。ほら、月夜神社の境内なら沢山お花が咲いてるわよ」

「そうですね・・・ちょっと行ってきます!すぐに戻りますので。お客様、ゆっくりしていってくださいねぇ~!」

「あ、は、はい。ご丁寧に・・・どうも」


みーこちゃんが赤色のキルトの手提げかばんに、らくがき帳と色鉛筆を入れて店を出てからは、再び穏やかで静かな店内で、小説の世界に浸っていた。

美鈴さんはと言うと、キッチンの中にある小窓の傍に座って、時々うとうとしつつも、気持ち良さそうに目を細めていた。

周りを三つ編みでぐるりと巻かれたお団子で、顔周りの柔らかな黒髪は彼女の肌の白さを際立たせている。

――綺麗な人だな

視線に気付いたのか、ふとこちらを見て微笑んだ美鈴さんに慌てた僕は、再び手元の小説に視線を戻した。


ここで過ごしていると、日頃あんなにも僕の脳内と心を蝕む悩みなんかも、今はどうでも良いとすら感じる。

まるでこの店自体が、僕という人間をあたたかい光で溶かしてくれているような気がするのだ。

だけど、それでも長年掛けて染み付いた僕の人に対する苦手意識や、このボソボソとした陰気な態度は、やっぱり治りそうにも無いのだが。


「西野さん、良かったらクッキー召し上がりませんか?私が個人的に作っている物なので、お代は結構ですよ」

ふと思い出したかのように、美鈴さんが口を開いたのは、それから暫く経ってからだった。

みーこちゃんは、まだ帰ってきていない。


「い、良いんですか?」

「もちろん。すぐにお持ちしますね」

そう言って、冷蔵庫から青色リボンが掛けられたガラス瓶を取り出した。

「あれ、そういえば・・・」 

「どうしました?」

お皿にクッキーを出していた美鈴さんが、手を止めて僕の方を見る。


「月夜神社って、山の中じゃないですか?それに、あそこは長い間人の手も入ってなくて廃墟同然だとか・・・参道も荒れてて上にはあがれないって聞いたことがありますが、大丈夫でしょうか。その・・・僕、迎えに行きましょうか?」

草は生え放題、木々が鬱蒼としていて少し薄暗いだろうし、そんな所に子供が一人で行くなんて危ない。

大人の自分ですら、ひとけのない森の中の朽ちゆく神社なんて、想像するだけでもゾッとする。

いてもたってもいられず、足元のカゴに入れてあった鞄を手に立ち上がった。

「まぁ。心配してくださってありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。あの辺りは慣れていますから。お絵描きに夢中になっているんでしょう。人が入らない分、植物に溢れていますから。もう少ししたら帰ってきますよ」

僕の心配をよそに、美鈴さんは涼しい顔で「珈琲か何かもお淹れしましょうか」と訊ねて来た。

それに対して、みーこちゃんが心配で仕方ない僕は、落ち着かない気持ちのまま「はい、お願いします」と腰を下ろすしかなかった。


丁度そのとき、玄関の扉が開き、元気な声が響いた。

「遅くなりましたぁ!ただいまです~」

その声に僕は思わず「あぁ、良かった」と言葉にしていた。

「西野さんが心配してくださっていたのよ」

「あ、いえ・・・無事に帰って来て良かったです」

手を洗ってエプロンを付けたみーこちゃんが「えぇっ!それは申し訳ありませんでしたっ」と僕のテーブルまで来て頭を下げた。

「はい!クッキーです。こちらはお詫びも兼ねてのサービスですぅ」

一度キッチンに戻った彼女は、フォームミルクが葉っぱの模様になったカフェラテと、市松模様のアイスボックスクッキーが載った皿をテーブルに置いた。

甘さ控えめのクッキーがほろりと舌で崩れ、ほのかな苦味に柔らかいミルクが混ざり合うカフェラテ。

「美味しいです」

相変わらずボソボソとした僕なりの、精一杯の大きな声に、美鈴さんはキッチンから優しく微笑みを返してくれたのだった。




カフェ・れんげ草で過ごす以外の僕の日常は、実に地味でつまらない、意味の無い日々だ。

朝起きて、仕事に行って、帰って来て。

寝たらまた朝が来る。

そんな同じ事の繰り返しな毎日でも、ただただ繰り返して済めばいいのだが、やはり疲労やストレスだけはどんどん降り積もる。

スイカやクッキーを食べたあの日から、あっという間に夏の終わりが近付いていた。


それでも午後のこの時間はまだ暑い。

蝉も変わらず喚いているし、商店街の道の先には蜃気楼が浮かび上がっている。

ただ夕方になると、ひぐらしの声に耳を傾ける余裕ができるくらいには、少し風が涼しい日もあるのが救いだった。


陽だまりカフェ・れんげ草。

僕とは真逆で、明るくて、子供なのにとてもしっかりした働き者のみーこちゃん。

包み込むような優しさをもつ店主の美鈴さん。

人が苦手な僕が、なぜか唯一心を落ち着かせられる場所だ。


この小さな町の路地裏商店街の隅にひっそりと佇むその店に、数週間ぶりに向かう僕の足取りは軽い。

店の隣に立つ大きなポプラを見上げ、まだまだ力強い夏の木漏れ日に目を細める。

木製のドアノブに手をかけた時、店の中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。


一瞬、入るのを躊躇ったが、せっかく久々に来られたのだ。


この日を無駄にはしたくない。

勇気を振り絞るように、一気にドアを開ける。


リン 


いつもの鈴の音と共に、みーこちゃんが出迎えてくれた。

入り口から1番近いテーブルには、知らない女性が座っていた為、窓際の席に腰を下ろした。

みーこちゃんがお水とおしぼりを持って来て、いつものように深々とおじぎをしてからキッチンへと戻っていく。

その先には、長い髪を後頭部でお団子に纏めた美鈴さんが、女性が注文したらしい珈琲の入ったサイフォンに真剣な眼差しを向けていた。


サイフォンの上部に取り付けられたロートと呼ばれる珈琲粉が入った部分を撹拌しているようだ。

あまり珈琲には詳しくないが、以前何かの本でこの作業が珈琲を淹れる上でとても大切な行程だというのを見た気がする。

僕があまりにじっと見ていたからか、ふと美鈴さんがこちらに微笑み、僕は慌ててテーブルに立ててあったメニューブックを手に取り目を逸らした。

――前髪、伸びたな。さすがに少しは切らないとまずいか。

下を向いてメニューを見ていると、文字との間に前髪が鬱陶しくカーテンのように邪魔をしてくる。

鬱陶しいという自覚はあるが、結局切ったところで、いつも目より下の長さなのだ。

「はぁい、お待たせしました。フレンチトーストもすぐにお持ちしますから少々お待ちください~」

みーこちゃんは店のインテリアと同じ黄白色のお盆で女性客の元に珈琲を運ぶと、僕のテーブルへとやって来た。

「ご注文はお決まりですかぁ?」

「あ。じゃ、じゃあ・・・いつものミックスジュースで」

「かしこまりましたぁ!」

いつもここに来たらミックスジュース。

バナナ多めというのも、美鈴さんは言わなくても覚えてくれているらしく、うっかり僕が言いそびれてもバナナを多めにして作ってくれる。


「ね。君、私のこと覚えてないの?」

突然、ミックスジュースを飲みつつ小説を読んでいた僕の安息の時を壊したのはさっきの女性客だ。

メープルシロップの黄金色に染まった空の皿を、みーこちゃんがお盆に乗せているところだった。

「は?あ、いや・・・初対面だと思いますが」

「初対面じゃないよ。西野君でしょ?ほら、覚えてない?宇佐美。今は廃校になっちゃったけどさ、高2で同じクラスだったよ。一度だけ隣の席にもなったのに」

人見知りする僕とは対象的によく喋る彼女の視線は、しっかりと僕の目に向けられている。


「いや、ごめん。やっぱり、覚えてない」

大して楽しくもない、寧ろ苦痛でしかない学校という空間の中で、生徒の顔なんていちいち覚えていない。

彼女のまっすぐ過ぎる視線が、正直僕にとっては心地良いものでは無かった。

――もう帰ろう。

栞も挟まないまま小説を閉じ、鞄を掴んで席を立つ僕のシャツの端を「あぁ、ごめん。ごめんってば」と掴んで制止した。


「何か懐かしくなって、つい声かけちゃっただけだから。ここ、よく来るの?」

「時々」

彼女に僕の座っていた椅子の座面を指差しながら「ほら、座って座って」と言われ、仕方なく腰を下ろした。

学生の頃の同級生なんて今更会っても嬉しくもないが、こうして僕に普通に話し掛けて来る女性というのも珍しくて、言われるがままになってしまう。


「そっかぁ。あ、今も絵描いてるの?すっごい上手かったよね~」

「いや、もう描いてない。やめたんだ」

「そっかぁ・・・。でも絵の仕事をしたいって文集に書いてたよね?」

――あぁ、何でそんなどうでもいい事まで覚えているんだ。

「じゃあさ、私と同じだね」

そう言うと宇佐美は腕時計を確認して「あー、もう行かなきゃ!」と鞄を引っ掴んで会計を済ませると、騒々しく去っていった。

――なんなんだ、あいつは。

そういえば、宇佐美はクラスの中でもかなり明るい奴だった。

他の生徒は僕をからかったり、陰口を叩いたりしていたけど、宇佐美はそういう事をしなかった。

からかってくる女子に対して『そういう事言ってる時のあんたらの顔って、本当にブスだよ』と言っていた気がする。

そんな事を思い出すと、急にあんなに冷たい態度をとったことへの罪悪感に苛まれる。

――今度会ったらちゃんと礼も言わなきゃだな。

慌ただしく宇佐美が駆けていった商店街の通りを眺めながら、そんな事を考えていた。


「ごちそうさまでした」

みーこちゃんが僕が出した千円札をお金を仕舞っている缶に入れ、器用にそろばんを弾いている。

「宇佐美さんとお知り合いだったのですね」

美鈴さんが、濡れた手をタオルで拭きながら言う。

「はい。学生の頃の・・・。あまり良い思い出は無いので。僕は見ての通り・・・陰気な人間ですから。性格も、ほら。良くないし」

「まぁ、そうなのですか?私は西野さんはとても良い方だと思っていましたよ。ねぇ、みーこちゃん」

「西野さんはマキさんの絵を褒めて励ましてくださった方です。とっても良い方ですよ~。はい、お釣りですぅ」

みーこちゃんがキャッシュトレーに置いてくれたお釣りを、安物のあちこち擦り切れてくたびれた黒い財布に仕舞った。

「それに西野さんは陰気では無いですよ。西野さんの目。そこの窓からの景色を見る瞳が、とても綺麗です。きっと理由があって、あまり人と接するのが得意では無いのでしょう?」

「それは・・・」

核心をつかれ、思わず口籠ってしまった。


それに僕の目が綺麗だなんて。

恥ずかしさの余り、無意識に手櫛で前髪を引っ張って目元を覆う。

「もし何か吐き出したい事があれば、遠慮なく仰ってください。私、自分の事には口下手ですけれど、皆さんのお話を聞くのが好きなんですよ」

そう言って照れたように笑う美鈴さんの表情に。

まるで悪意が感じられない彼女の優しさに、僕の心の中の何がぐらりと揺れる。


まるで高く高く積み上げられた暗い石の壁が、崩れる寸前のような。

仄暗い僕の心に、柔らかい日の光が射し込もうとしているかのようだった。


「人の言葉に、自分を潰す必要は無いのですよ」

美鈴さんの白い指先がそっと僕の前髪に触れ、あらわになった僕の目が、濁りのない彼女の目と合う。

「ぼ、僕は――」

美鈴さんの隣でこちらを見上げる、みーこちゃんの無垢な丸い瞳。

子供には聞かせられない。

するとそれを察したのか、みーこちゃんは「お買い物に行ってきますね」と笑顔で一礼して店を出ていってしまった。



僕の父は、この世で1番嫌いな人間が二人いる。

1人は、浮気をして、ある日突然出ていった母。

そしてもう1人は、その母そっくりの僕だった。


「お前の人をなめたような目を見てるだけで苛つくんだよ」

「あのクソ女にそっくりになりやがって」

閉め切った6畳の部屋に煙草の煙が充満する。

分厚く重いガラスの灰皿には、隙間なく吸い殻が積み重なり、さっき消した煙草が白い煙を立ち上らせている。

口を開くたびに漂うアルコールの臭い。

酒の缶がそこらに転がり、底に少し残っていたビールが床に染みを作っていた。

そんな薄暗く重い空気が満ちる部屋に、背中を丸めた父がうなだれるようにして座っているのが、日常の光景となっていた。

僕が幼稚園くらいの頃はここまで酷い有様ではなかった。

かつてはシワ1つ許さずに必ず帰宅後はハンガーにぴしりと掛けていたスーツも、僕が小学3年生にあがった頃には床に放りっぱなしでシワどころか、塵や埃で黒のスーツからグレーに見えるほどだ。

父と母は、僕が小学校に入学する直前の3月に離婚した。

母が浮気をして出て行ったと父は言うが、そんな行動に出たのも、亭主関白が過ぎる父に疲れていたことも一因だと思う。

僕はそんな母の愚痴をよく聞かされていた、という単純な理屈でしかないが。


大人の事情がわからない当時の僕には、そんな理由しか思い浮かばなかったのだ。

新しい制服に見を包んだ同級生たちが桜の木の下を両親と手を繋ぐ頃、眉間にシワを寄せて仕事の電話をする父から離れ、1人舞い散る桜を見上げていた。

仕事人間で家事なんてした事も無かった父が、手伝いもまだままならない僕と暮らすことは、とてつもないストレスになったらしい。


酒に溺れ、煙草も多くなる。

酒に酔っては、僕に「お前の目を見ているだけであいつを思い出す」「陰気臭い所もあいつそっくりだ」と吐き捨てるように言い、次第に笑顔も無くなり、目も合わせてくれなくなったのだった。


「それから僕は人の目を見る事が怖くなって。中学に上がって、ある日、趣味だった絵を描いたノートを、うっかり学校の教科書に紛れて持っていってしまったんです。それを見られてから、からかわれるようになりました。喋っても気持ち悪がられ、僕の動作1つ1つを笑われました。・・・今の僕は、そういった事が影響してしまっているんだと思います」

昔の事を、こんなにも包み隠さず誰かに話したことは無いかもしれない。

少なくとも、家庭環境が荒れてからは間違いなく初めてだ。

妙に饒舌に話す自分に急に恥ずかしくなって、前髪の隙間から一瞬だけちらりと様子をうかがうも、美鈴さんは僕の話を、穏やかな表情で静かに聞いてくれていた。


「瞳は心を映します。西野さんは気付いていらっしゃらないかもしれませんが、あなたの目はとても優しい。優しい心を持つ人は、悲しみや苦しみも知っている人です。あなたを必要とする人は必ず居ますよ。それは仕事等に限らず、人としてです。少なくとも、絵を褒めてもらえたマキさんもその1人ですよ」

美鈴さんは、カウンターテーブルに置いてあった両手サイズ程のカゴに入れてある、5枚づつラッピングしてあるクッキーを僕の手に握らせた。

「もちろん、私もですよ」

「美鈴さんも、僕を?」

「えぇ。だって――」

そう言うと、彼女は白いカーテンがはためく窓辺に近付き、ポプラを見上げる。


淡いレモン色の陽射しを浴びた美鈴さんの横顔は、どこかこの世の者では無いような。

触れたら消えてしまいそうな、不思議な儚さを纏っていた。

さぁっとポプラの葉を揺らす風に、額があらわになる。

「この窓からの風景を。このポプラを、いつも西野さんはとても優しい目で見てくださるもの。私は、言葉を持たないもの、当たり前にそこにあるものを愛せる人に、悪い人はいないと思うんです」

そう言って、肩をすくめて微笑んだ。


「また来ます。みーこちゃんも、ありがとう」

「はぁい!お気を付けてお帰りくださいっ」

「先程お渡ししたクッキー、召し上がって頂いた物の味違いなんです」

美鈴さんが、クッキーの入った僕の鞄を指差す。


午後5時。

ついさっき買い物から帰ってきたみーこちゃんも一緒に、美鈴さんと玄関に見送りに出てきてくれた。

「美鈴さんも、ありがとうございました」

「ゆっくり、前に進められれば良いんですよ。時には立ち止まってみて。生きていく上で、とても大切な事が見える事もありますから」

美鈴さんの落ち着いたゆったりとした口調は、僕の心の緊張の糸までも緩めてしまう。

二人に深く頭を下げてから、店を後にした。



夏の終わりの夕暮れのくすんだ青の空には、橙色の雲が放射状に広がっている。

斜め向かいにある惣菜屋からの、魚の煮付けのような匂いが鼻をくすぐる。

商店街を行き交う人々。

僕を通り過ぎて行く人達の足元に、長い影を作っていた。


月夜神社の参道へと続く鳥居があるあぜ道に差し掛かると、列を成し群れを作る朱い彼岸花が妖しく咲き乱れ、晩夏の夕風に揺れていた。

田畑を囲む山々が、夕焼け色に染まっている。


カナカナカナ・・・


ひぐらしの鳴き声に、ふと鳥居の周りの雑木林を見上げると、目に留まった一本の杉の木に蝉の抜け殻がくっついていた。

枝の無い杉の木の間を、細い夕陽がまっすぐに射し込む。

――そういえば抜け殻って、空蝉とも言うんだよな


空の蝉。

まるで僕のようだ。


だけど、今は少し違うような。

胸の中に、ほんのりと温かみを感じていた。


僕に優しくしてくれた人に、僕も恩を返せるだろうか。

美鈴さんやマキさん。みーこちゃん。

そして当時は気付けなかった、虐められていた僕に向けてくれていた宇佐美の優しさ。

多分、葛藤や苦しみもあった父の中にだって、僕を育ててくれた優しさはあったはずだ。

――今まで気付けなかった、気付こうとしなかった事に、これからはもっと心の耳を澄ませよう。


短い命を輝かせ、その生を繋いでゆく蝉に想いを馳せる。


美鈴さんに。


あのカフェに感謝しながら、空蝉に願いを込めたのだった。

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