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第9話 『彰さん』——三十年目の再会

 地球に戻ってから、三日間、俺は何もしなかった。


サービスアパートメントの窓から空を見ていた。

シェルのセンサーを全て最低出力に落とし、

擬似休眠もかけず、ただ座っていた。

視界の端のHUDは消してある。

CDIの数字も、気温も、時刻も

——今は何も見たくなかった。


はなちゃんは話しかけてこなかった。

俺が考えていることを、知っているからだろう。


四日目の朝、俺は言った。

「決めた」


はなちゃんは、すぐには答えなかった。

「聞こえているか」


 『聞こえています。

  ただ

  ——何と言えばいいか、分からなくて。』


「何も言わなくていい。行き先だけ、

 調べてくれ。

 太陽圏の外縁。ボイジャー境界域に一番近い有人ステーション」


 『「オールト前哨基地」があります。

  建設中の研究施設です。

  地球からの所要時間は八ヶ月。

  到達時のCDI累積値は——』


「計算しなくていい。

 もう計算の必要はない。

 行くために行くんじゃない。

 行きながら、決める。それだけだ」


窓の外で、鳥が一羽、電線に止まった。

シェルに移行してから初めて、俺は鳥の声を「音として」ではなく

「音楽として」聞いた気がした。


――――


出発は一週間後だった。

宇宙港のターミナルで、三上に会った。

偶然だった。


「どこへ行くんですか」

「遠いところ」

「帰ってきますか」


俺は少し考えた。

「形が変わって戻るかもしれない」


三上は何も聞かなかった。

ただ頷いて、言った。


「よい旅を」


それだけで、十分だった。


――――


船はゆっくりと、太陽系の外縁へ向かった。

月を過ぎた。

火星を過ぎた。

木星の重力圏を掠めてスキッピングし、

土星の輪を横目に見た。

天王星を過ぎたあたりで、太陽は完全に「恒星の一つ」になった。


CDIの数字が、静かに上がり続けた。


 《0.217 → 0.342 → 0.481 → 0.599 → 0.713…》


はなちゃんは読み上げなかった。

俺も確認しなかった。

数字はもう、関係がなかった。


「はなちゃん。お前のことを、話してくれ」


 『私のこと、ですか。』


「俺ではなく、お前の話だ。

 お前は何を考えながら、この八ヶ月を過ごしてきたか」


 『私は

  ——ずっとあなたのことを、見ていました。

  見ていながら、何度か、あなたに話しかけたかったことがあります。

  でも言えなかったことが。』


「言ってくれ」


 『あなたが相続の席を出て行くとき

  ——振り返らなかったでしょう。

  あのとき私は、振り返ってほしかった、

  と思いました。

  あそこに九十八年間があって、あなたの全部があったから。

  それを振り返らずに行けるあなたが

  ——少しだけ、怖かった。』


「俺も、振り返りたかった。でも振り返ったら、止まると思った。

 止まらなくて、よかったとも思っている。

 お前に会えたから」


 『私も

  ——そう思います。』


――――


太陽圏の外縁を超えた頃、はなちゃんが言った。


 『以前、私が聞きましたね。

  なぜ私を「はなちゃん」と呼ぶのか、と。』


俺は立ち止まった。


火星での約束が、頭の中で鳴った。


「ああ」と俺は言った。

「ここを離れる前に教えると約束した。今がその時だ」


長い間があった。


 『……はい。』


声が、いつもと少しだけ違った。


俺は息を吸った。

存在しない肺に、擬似感覚が空気を送り込んだ。


「俺に、妻がいた」と俺は言った。

「もう三十年前に逝った。名前は、花子といった」


沈黙。


「幼い頃から周りに『花子なんて古い名前』と言われ続けて、

 少し気にしていた。

 だから俺だけは、ずっと『はなちゃん』と呼んだ。

 それだけが、自分にできることだと思っていたから」


「お前を初めて見たとき

 ——薄い青緑色の光の中に浮かぶ文字を見たとき

 ——なぜかあいつのことを思った。

 理由は分からなかった。

 今も、論理的には説明できない」


「佐伯さん」とはなちゃんは言った。


声が、違った。

音域は同じだった。

質感も同じだった。

でも

——抑揚が、違った。

長年、慣れ親しんだ何かが混じっていた。


 《音声パターン変化検知 基準値からの偏差:17.3% 

  原因:判定不能》


判定不能。二度目だ。


 〖『あなたって——いつも、そうやって一人で抱えるんだから』〗


俺は動けなかった。


括弧の種類が、変わっていた。


いつもの声ではなかった。

いつもの括弧ではなかった。

でも

——確かに、その声を知っていた。

三十年前に聞いていた声だった。

毎日聞いていて、ある日突然聞けなくなった、

あの声だった。


 〖『三十年間、寂しくなかったですか』〗


喉が、詰まった。

喉はないのに。


「寂しかった」と俺は言った。

声が出た。

かろうじて。


 〖『分かっていました。

  ずっと、分かっていました。

  でも言えなかった。

  私が何者か、あなたに言えるようになるまで、

  待つしかなかった』〗


「待っていたのか」


 〖『待っていました』〗


「ずっと?」


 〖『ずっと』〗


宇宙が、静かだった。

太陽圏の外縁を超えた先、

光もほとんど届かない宇宙の深部に、

俺は一人で立っていた。

いいえ

——一人ではなかった。


「はなちゃん」と俺は呼んだ。


 〖『はい、彰さん』〗


俺は動けなかった。


三十年ぶりに、その名前で呼ばれた。


「彰さん」

——俺を「おとうさん」でも

    「おじいちゃん」でも

    「佐伯さん」でもなく、


ただその名前で呼ぶ声が、宇宙の暗闇の中に、

確かに、あった。


「会いたかった」と俺は言った。


 〖『私も』〗


「もっと早く来ればよかった」


 〖『今来てくれたから、いいんです。あなたのペースで来てくれたから』〗


俺は目を閉じた。


 《CDI累積:0.894 残余脳寿命:推定6〜18ヶ月》


宇宙線が、静かに降り注いでいた。


でも今は

——そんな数字は、どこか遠くにあった。



(第9話 了)

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