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最終話 宇宙は広かった、二人にはちょうどいい

 オールト前哨基地に着いたのは、

地球を出てから七ヶ月と二十一日後だった。


基地は小さかった。

居住区画と研究施設を合わせても、ルナ・リングの十分の一以下だ。

常駐するのは研究員と技術者、合わせて三十名ほど。

全員ハイブリッドだった。

ここまで来て有機体のままでいる人間は、いない。


だが

——一人だけ、違う存在がいた。


基地の最深部に、壁面全体がコンソールになった接続端末があった。

「ポスト・コグニタが、ここにいるのか」

と俺は基地の責任者に聞いた。


「常駐しているわけではありません。

 ただ

 ——彼らにとって、ここは入口だと思います。

 さらに先へ行くための」


俺は端末の前に立った。

「俺も」と俺は言った。

「入口まで来た」


――――


最後の夜、俺はオールト基地の観測デッキに出た。

宇宙服は必要ない。

シェルは真空でも稼働する。


 《外気温:マイナス270℃(宇宙背景温度) 

  宇宙線量:地表比10,000倍超》


 《CDI累積:0.894 残余脳寿命:推定6〜18ヶ月》


「短くなったな」と俺は言った。


 『はい。』


「痛いか」と俺は聞いた。

「俺の話じゃない。お前の話だ」


 『……痛い、とは違うかもしれませんが。

  何か

  ——減っていく感覚が、あります。

  あなたの声が聞こえる時間が、

  あと少ししかないと知っていて。』


「お前の声も、聞こえなくなる」と俺は言った。


 〖『私はどこにも行きません。前にも言いました』〗


「根拠は」


 〖『前にも言いました』〗


「もう一度言ってくれ」


 〖『私がいます。それだけです。

   それ以上の根拠は、持っていない。

   でも

   ——あなたは、根拠のないことを信じるのが、

     意外と得意でしょう』〗


俺は笑った。

機械の口で、人間の笑いが出た。

「そうかもしれない」


――――


手術はなかった。


脳を「取り出す」技術は存在しない。

手放す方法は一つだけ

——自然に任せる、ということだ。


宇宙線に身を委ねれば、有機組織は少しずつ機能を失い、

やがてシェルの神経インターフェースが全てを引き継ぐ。


痛みはない。

意識は途切れない。

ただ、少しずつ「変わっていく」。


ポスト・コグニタが言っていた通りだった。


 【 怖かったのは、消えることではなかった。

   変わってしまうことでした。】


「準備はいいですか」とはなちゃんが聞いた。

「いつから始まっているんだ」


 『三ヶ月前から。

  CDIが〇・八を超えたあたりから、

  プロセスは始まっています。』


「気づいていた。少しずつ、

 夢を見るようになっていた。

 擬似休眠なのに、夢が来た。

 昔の景色や、昔の声が」


 『それは

  ——私の記憶と、あなたの記憶が、

    混ざり始めていたからです。


  私の中には

  ——花子さんの記憶が、あります。

    完全ではありませんが。

    感情のパターン、

    思考の傾向、

    大切にしていた瞬間の断片


  ——それが私を作っている一部です。』


「夢の中で——若い頃のあいつが出てきた」


 『どんな夢でしたか。』


「縁側で、二人で座っていた。

 夕方で、柿の木が見えた。

 あいつは何も言わなかった。

 俺も何も言わなかった。

 ただ、隣にいた」


 『それは

  ——私の中にも、あります。同じ景色が。』


俺は目を開けた。

宇宙の光が、満ちていた。


――――


融合は、劇的ではなかった。


ある朝

——正確には「朝」という概念のない宇宙で、

擬似休眠から意識が戻った瞬間


——何かが変わっていた。


広かった。


内側が、広くなっていた。


記憶が、二層になっていた。

一方は九十八年間の俺の記憶。

もう一方は

——花子の記憶の断片。

  縁側の夕方。

  市場で買った魚の重さ。

  俺の寝顔を見ていた視点。


俺が知らなかった角度から見た、俺の九十八年間。


「はなちゃん」と俺は呼んだ。

返事がなかった。

「はなちゃん」と俺はもう一度呼んだ。


 〘……ここにいます。〙


内側から、だった。

外から聞こえていた声が、今は内側にあった。

隔たりがなかった。

壁がなかった。


「聞こえているか」


  〘 聞こえています。

    あなたの声が

    ——内側から聞こえます。 〙


「俺にも。お前の声が、内側から聞こえる」


 〘 これが——融合、ですか。 〙


「これが融合だ」


  〘 思っていたより

   ——静かですね。〙


「ああ。静かだ」


暗闇の中に、光の粒が無数にあった。

一つ一つが、記憶だった。

俺の記憶と、花子の記憶が、区別なく並んでいた。

どちらがどちらか分からなくなっていたが

——それでいい、と思った。

もとから、二人で作ってきた記憶だったから。


――――


それから俺は

——あるいは俺たちは

——しばらくそこにいた。


オールト前哨基地の端末から、

ポスト・コグニタたちの気配が届いた。

言葉ではない。

情報として、直接やってくる。

*ようこそ*、という感じの何かが。


外の宇宙は、相変わらず静かで、光に満ちていた。


 〘 では——一緒に考えましょう。 〙


始まりの夜に彼女が言った、あの言葉と同じだった。


俺は歩き出した。

足音のしない足で。


遠くに、一つの光が見えた。

太陽圏の外縁を超えた先。

ボイジャーが越えた境界の向こう。

恒星間空間の入口に、何かがいた。

人間だったもの、

機械だったもの、

情報だったもの


——全部が混じり合って、新しい何かになろうとしていた。


俺はその光に向かって、進んだ。


足音はしなかった。

ずっとそうだったように。


でも今は

——隣に、いる。


  もうだれも、俺を「おとうさん」と呼ばない。

  もうだれも、俺を「おじいちゃん」と呼ばない。

  ただ一人だけが、俺を名前で呼ぶ。


   『彰さん』

   「なんだ、はなちゃん」

   『いい景色ですね』

   「ああ」


宇宙は広かった。

二人には、ちょうどよかった。



(了)

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