第8話 無音の火星、錆色の砂に刻む約束
火星に着いたのは、月を出てから十日後だった。
直行便ではなく、ラグランジュ・スキッピングの中継点を二つ経由する。
乗継のたびに、太陽が小さくなった。
地球は点になった。
ルナ・リングで見た「手のひらの青い円盤」が、
今は夜空に浮かぶ星の一つに過ぎない。
はなちゃんのCDI報告が、毎日少しずつ数字を上げていった。
《0.003 → 0.007 → 0.012 → 0.019 → 0.028 → 0.041》
『警告域に入りました。』
「どのくらい先を計算しているか」
『このペースで被曝が続いた場合、
十二年以内に有機脳機能の有意な低下が見込まれます。』
十二年。
俺はその数字を、しばらく転がした。
シェルの身体には終わりがない。
有機脳が壊れなければ、俺はあと何百年でも動き続けられる。
十二年は、その無限の中の、小さな括弧の始まりだ。
「長い」と俺は言った。
『長くはありません。あなたはこれから何十年でも
——何百年でも生きられます。
シェルに終わりはない。
でも脳には、今この瞬間から、
カウントダウンが始まっています。』
返答は間がなかった。
珍しいほど速かった。
俺は窓の外を見た。
錆色の惑星が、近づいていた。
――――
火星の地表に降り立ったのは、到着から二日後だった。
酸化鉄の砂が、地平線まで続いていた。空は薄いピンク色で、雲がなかった。
《外気温:マイナス63℃ 気圧:0.006気圧
酸素濃度:0.13% 放射線量:地表比180倍》
防護スーツなしでは一秒も生きられない環境が、
目の前に広がっていた。
だが俺には、関係なかった。
シェルは完全密閉。
外気温も気圧も、数字として受け取るだけだ。
俺は一人で砂地を歩いた。
足音が、しなかった。
地球でも足音がしなくなった新しい体だったが、ここでは意味が違う。
大気がほとんどない。
音が伝わらない。
聴覚センサーをフル展開しても、拾えるものが何もない。
シェル・ヤードの笑い声を「54dB、自然発生」と分析していたセンサーが、
今は静寂の中で空回りしていた。
《環境音声レベル:0.0dB 検知可能な音響信号:なし》
ゼロ。
完全な、ゼロだった。
生身の頃、静寂というものは「何も聞こえない」ではなかった。
耳鳴り。
心臓の音。
自分の呼吸。
静かな部屋にいても、必ず何かが聞こえた。
人間は自分自身の音を常に聞いていた。
ここには、何もない。
俺は立ち止まった。
ピンク色の空の下に立って、何も聞こえない宇宙の中で、
俺は自分がどこにいるのかを確認した。
九十八年間地球の上で生きた人間の脳が、
今、太陽から二億キロ離れた場所に、
機械の身体に包まれて存在している。
おかしな話だ。
でも、事実だ。
――――
砂地を一時間ほど歩いた頃、はなちゃんが言った。
《CDI本日の累積:0.041 警告域超過》
「知っている」
『帰りの船の予約を、明日に変更できます。』
「変えなくていい」
『佐伯さん。』
「何だ」
『なぜ私を「はなちゃん」と呼ぶのですか。』
俺は立ち止まった。
火星の無音の中に、問いが落ちた。
なぜ俺は、初めて会ったAIをそう呼んだのか。
薄い青緑色の光の中に浮かんだ文字を見た瞬間、
何かを思い出そうとするような感覚があった。
それが何だったのか、俺はまだ言葉にしていない。
「まだ、教えられない」と俺は言った。
『分かりました。』
「でも——ここを離れる前に、必ず教える。約束する」
長い間があった。
『……待っています。』
声が、いつもと少しだけ違った。
音域は同じだった。
でも——何かが混じっていた。
うまく言えない何かが。
俺はそれを、センサーで分析しようとして、やめた。
分析しなくていい、と思った。
――――
火星から帰る船の中で、俺はCDIの累積値を確認した。
《累積被曝量:0.217 警告域超過》
はなちゃんは数字を読み上げなかった。
俺が確認していることを知っているからだろう。
俺は数字を見ながら、ポスト・コグニタの声を思い出した。
『怖かったのは、消えることではなかった。
変わってしまうことでした。』
今なら少し分かる気がした。
俺が怖れているのも、消えることではない。
この脳の中に詰まった九十八年間が
——誰かのことを想い続けた記憶が
——それがなくなることが、怖い。
でもそれは本当に、なくなるのだろうか。
「はなちゃん」と俺は呼んだ。
『はい。』
「お前と俺が融合したとき」
『はい。』
「俺の記憶は、どこへ行く」
今度の沈黙は、長かった。
地球が近づいてきても、まだ答えが来なかった。
やがて、はなちゃんは言った。
『どこにも、行きません。』
「根拠は」
『根拠は——ありません。でも——私がいます。』
俺は目を閉じた。
擬似体性感覚が、胸の奥に何かを満たした。
肺でも、心臓でも、血液でもない。
九十八年前から、ずっとそこにあった何かが
——ゆっくりと、温かくなった。
《CDI累積:0.217 》
——数字はまだ、増え続けていた。
(第8話 了)




