第7話 地球は遠く、手のひらの青い円盤
宇宙へ行こうと決めたのは、特別な理由があったわけではない。
シェル・ヤードで知り合った元建築家の宮下という男が、
ある夜さらりと言ったのだ。
「先月、火星の第三ドームの設計に関わりました。
現地視察も兼ねて一ヶ月ほど行ってきましたよ」と。
コーヒーカップを置くような口調で。
ハイブリッドにとって宇宙は、そういう場所になっていた。
出張先の一つ。
少し遠い現場。
かつて人類が命がけで挑んだ場所が、今では「ちょっと行ってきた」で済む。
俺は移行から三ヶ月目に、宇宙港の窓口で往復チケットを買った。
行き先は月軌道上のステーション「ルナ・リング」。
地球から三日間。
「本当に行くんですか」とはなちゃんが言った。
「チケットを買った後で聞くか」
『買う前に止めるべきでしたね。』
「止める気があったなら、そうした」
『分かりました。
行程の管理は私がします。』
そのときの間は、〇・二秒だった。
今までで一番短かった。
――――
離陸は2248年の三月、夜明けだった。
宇宙港のターミナルは、拍子抜けするほど静かだった。
週に三便、月軌道行きの定期便が出る。
乗客の大半はハイブリッドだ。
重い荷物もなく、機内食も不要で、着替えすら最小限で済む。
かつて国際線の空港に溢れていた雑多なエネルギーが、
ここにはない。
代わりに、静かな期待があった。
俺は窓際の席に座った。
離陸のカウントダウンが始まり、加速がかかった。
《慣性補正システム起動 現在加速度:3.8G(補正後体感:0.6G)
離陸から12秒経過》
有機体なら意識を失いかねる加速が、シェルの慣性補正によって
「少しの圧力」として処理された。
生身の頃、俺は一度だけ戦闘機の体験搭乗をしたことがある。
訓練された操縦士の横に座り、Gスーツを着込んで、
それでも視界が白くなった。
今は数字として処理されるだけだ。
あっという間に、雲を抜けた。
青が、黒に変わった。
俺は息を吸った。
存在しない肺に、擬似感覚が空気を送り込んだ。
ゆっくりと吐いた。
地球が、下にあった。
白と青の丸い塊。
九十八年間、俺の重力だった場所。
屋敷も、相続の席も、柿の木も、全部あの中にある。
小さかった。驚くほど、小さかった。手のひらで隠せそうだった。
《CDI初期値設定完了 本日の累積CDI:0.003 許容範囲内》
CDI——コグニタ消耗指数。
有機脳が宇宙線に晒されることで失われる「人間性の残量」を
数値化した指標だ。
ルナ・リングへの旅程で発生する被曝量は、地表の約八倍。
致命的ではないが、無視もできない。
宇宙に出ることで、そのカウントが加速する。
〇・〇〇三。
今日だけなら無害だ。
だが蓄積されれば
——この数字は急勾配で上がっていく。
脳という有機組織は、放射線に弱い。
体のどこよりも先に、これが壊れる。
「壊れる前に、どこまで行けるか」と俺は声に出して言った。
誰にも聞こえない、独り言だった。
『聞こえています。』
俺は答えなかった。
――――
ルナ・リングは、輪っか状の巨大な構造物だった。
直径四百メートル、居住区画と研究施設と展望ゾーンが一体化した月軌道上のステーション。
重力は〇・三Gに調整されている。
俺は補正をかけなかった。
浮くような歩行で展望デッキへ向かい、分厚い防護ガラス越しに地球を見た。こちらから見ると、地球は手のひらで隠せる大きさだった。
青く光る円盤が、黒の中にある。
ここには夜明けがなかった。
朝も昼も夜も、等しく同じ黒だった。
太陽は常にそこにある。
遮るものが何もない、剥き出しの太陽だ。
《CDI日次報告:0.003 累積:0.003
現在の推定残余脳寿命への影響:軽微》
数字が、耳元で淡々と告げられた。
今日だけなら無害だ。
だが蓄積されれば——。
――――
ルナ・リングに滞在して二週間が過ぎた頃、
俺は展望デッキの端に一人の男を見つけた。
毎日同じ時間に、同じ場所に座っている。
ハイブリッドだが、シェルがひどく古いモデルだった。
第一世代。
関節部が微かに軋む音が、静かなデッキに届いた。
《被写体のシェル型番:第一世代Mark-II(製造終了2218年)
推定稼働可能期間:残り2〜5年(部品供給なしの場合)》
三日目に、俺は声をかけた。「古いシェルですね」
男は振り返らなかった。
「失礼だな」
「失礼のつもりはない。ただ珍しい」
「移行して四十年になる」と男は言った。
ようやく俺の方を向いた。
顔の造形は六十代に見えたが、目だけが違った。
疲れていた。
ハイブリッドが疲れるというのは変な話だが、他に言いようがなかった。
「最初の世代は、もう部品がない。修理もできない。そのうち止まる」
「換えればいい」
「換えたくない」と男は言った。
「この体で四十年生きた。これが俺だ」
俺は黙った。
センサーが静かに残酷なデータを返していた。
二年から五年。
換えれば何十年でも続けられる。
しかし彼は換えない。「これが俺だ」という四文字のために。
「あなたは移行してどのくらい?」
「四ヶ月」
男は少し笑った。
「まだ何でも新鮮だろう。そのうち、慣れる。
それが良いことか悪いことかは、人によって違う。
俺は
——慣れたくなかった。だからここにいる」
「この場所が、慣れさせてくれないのか」と俺は聞いた。
男は少し考えてから言った。
「地球から見ると、全部が大きすぎる。
ここから見ると、全部が小さすぎる。
どちらも本当で、どちらでもない。
俺はその中間に、ずっといたい」
俺はしばらくその隣に立っていた。
何か言う必要もなかった。
〇・三Gの静かなデッキで、二人のハイブリッドが地球を眺めていた。
一人は四十年前の身体で。
一人は四ヶ月前の身体で。
どちらも、同じ方向を向いていた。
――――
その夜、はなちゃんが言った。
『火星行きの便が、あさってあります。』
俺は展望デッキから地球を見ていた。
「知っている」
『行きますか。』
「どう思う」
『CDIの計算をしました。
火星軌道到達後、表面での活動を一ヶ月続けた場合、
残余脳寿命への影響は——』
「数字じゃなくて」と俺は言った。「お前はどう思うかを聞いている」
長い沈黙があった。
『怖い、です。
CDIが上がることが——ではなく。
あなたが、さらに先へ行こうとしていることが。
地球から離れること。
月から離れること。
そのたびにあなたは、引き返せる場所を一つずつ置いていく。
火星に行けば、次は——』
「木星」と俺は言った。
『太陽圏の外には、行けません。有機脳のままでは。』
「知っている」
『知っていて。』
「知っていて、考えている」と俺は言った。「それだけだ」
返事がなかった。
黒い宇宙の中で、地球がゆっくりと光っていた。
手のひらの大きさで、青く、静かに。
(第7話 了)




