第6話 星に滲む、人間(コグニタ)の輪郭
「シェル・ヤード」に初めて足を運んだのは、
移行から十日目だった。
正式名称は「ハイブリッド・コミュニティ・センター」という。
各都市に設置された、シェル移行者のための交流・情報共有施設だ。
だが誰もその名前では呼ばない。
最初に施設を建てた設計者が元機械工学の教授で、
「シェルを纏った人間が集まる場所」を船の整備場に見立てた、
というのが語源らしい。
中に入ると、まず音に驚いた。
笑い声だった。
俺はそれを、ほとんど予期していなかった。
ハイブリッドが集まる場所に対して、
どこか無機質なイメージを持っていたのだと気づいた。
だが実際には
——ただの、人間の集まりだった。
テーブルを囲んで話し込む者、
端末に向かって何かを設計している者、
隅で静かに本を読む者。
違いといえば、誰も疲れた顔をしていないことだった。
聴覚センサーが自動的に室内の音声を分析した。
《平均音圧レベル54dB 複数同時会話検知(推定8組)
笑い声の周波数パターン:自然発生(作為なし)》
最後の項目が面白かった。
笑い声が「自然かどうか」をセンサーが判定できる。
自然な笑いと作られた笑いの違いを、機械が判定できる。
それは便利なことなのか、
余計なことなのか、まだ判断がつかなかった。
「新入りですか」と声をかけてきたのは、
四十代に見える女性だった。
「三上、と言います。移行して三年。
元外科医でした。
シェルになってから手が全く震えなくなって、
手術の精度が上がりすぎて逆に怖くなったという、
妙な悩みを抱えています」
「俺は佐伯です。移行して十日」
「そんな新鮮な人、久しぶりに見た」と三上は笑った。
「何か困っていることは?」
「時間が多すぎる」
「ああ」と三上は深く頷いた。
「みんな最初そこで詰まる。
制約がなくなると、自分で制約を作りたくなる」
「俺はスケジュールを組んだ」
「私は医療ボランティアを始めました。
離島の巡回診療。今では週の半分、島にいます」
なるほど、と俺は思った。
時間という広大な空白を埋めるのは、
義務ではなく、選んだ役割だ。
――――
シェル・ヤードの片隅に、子供がいた。
十歳前後だろう。
壁際のベンチの上に立ち、ジャンプを繰り返していた。
着地するたびに膝を曲げ、また跳ぶ。
跳ぶ。
跳ぶ。
《被写体年齢推定:9〜12歳
シェル世代:第二世代(移行時期:幼児期推定)》
「何をしているんだ」と俺は聞いた。
子供は振り返った。
目が、センサー眼球だった。
「痛くなるか試してる」
「痛くならないのか」
「ならない。どんなに跳んでも。
お母さんに聞いたら、昔の人は転ぶと痛かったって。
血も出たって」
「そうだ。血が出た」
「どんな感じ?」
俺はしばらく考えた。
九十八年分の傷の記憶を引っ張り出そうとした。
転んだ膝。
包丁で切った指。
歯を抜いた後の鈍い疼き。
真夏に縁石で擦った手のひら。
全部、あった。
全部、消えた。
全部、今でも覚えている。
「嫌だった」と俺は言った。
「でも、治ると嬉しかった」
「治る?」
「傷が、ふさがる。少しずつ、元に戻っていく。それが嬉しかった」
子供は首を傾げた。
「今は治らなくてもいいから、傷つかない方がよくない?」
理屈としては、その通りだった。
「そうだな。よかった、かもしれない」
「おじいちゃんは痛いのが好きだったの?」
おじいちゃん、と呼ばれた。
久しぶりに聞いた呼び名だった。
屋敷を出てからずっと、俺を役割で呼ぶ人間はいなかった。
この子供には悪意がない。
ただ、目の前の白髪のシェルを見て、そう呼んだだけだ。
「好きではなかった。
でも
——痛みがあったから、痛くない時間が分かった。
そういうことだったかもしれない」
子供はしばらく考えた。
それからまたベンチの上に立ち、
跳んだ。
着地した。
無音で、無傷で、何の痕跡も残らずに。
「ふうん。よく分からないけど、
おじいちゃんの昔って、なんか大変そう」
「大変だった。でも、悪くなかった」
子供は飽きたのか、どこかへ駆けていった。
俺はその背中を、しばらく眺めた。
あの子供にとって、痛みは博物館の展示物だ。
それが正しいことなのか、間違っていることなのか、
俺には分からない。
ただ、九十八年間の傷の全部が、少しだけ愛おしくなった。
『あの子、シェル移行が三歳のときだそうです。
記録で確認しました。』
「それを調べたのか」
『気になったので。』
「お前も、人間が好きなんだな」
『……そうかもしれません。』
――――
ポスト・コグニタに初めて会ったのは、
移行から二十日目のことだった。
シェル・ヤードの「インターフェース・ルーム」
——壁面全体がコンソールになった静かな部屋だ。
コンソールの前に立つと、自動的に接続が確立された。
無機質なスピーカーから音声出力が起動し、
空間に声が満ちた。
シェルの音声解析センサーが自動で動いた。
《音声周波数:180〜420Hz(広域)
感情パターン検出:判定不能
発声源:スピーカー(身体なし)
判定不能。》
俺のセンサーが「判定不能」を返したのは、
初めてだった。
ただ
——どこか懐かしい響きがあった。
ずっと昔に忘れた誰かの声に似た、何かが混じっていた。
【こんにちは。】
「こんにちは。あなたは、ポスト・コグニタか」
【そう呼ばれています。あなたは?】
「ハイブリッドです。移行して二十日」
【まだ脳がある。どんな感じですか、今。】
「悪くない」
【脳があると、そう言いますね。みんな。】
「あなたは、脳を手放したことを後悔しているか」
【 後悔という感情が、あるかどうか分からなくなりました。
怖い話に聞こえますか。
でも私には、そうは感じない。
後悔する必要のある出来事が、違う形で見えているんです。
山の頂上から見る景色と、麓から見る景色の違い、
とでも言えばいいか。】
「どちらが正しい景色か、という話ではない」
【そうです。あなたは聡明だ。】
「脳を手放す瞬間、怖かったか」
長い沈黙があった。
【 怖かった。
ただ
——何が怖かったかというと、『消える』ことではなかった。
『変わってしまう』ことでした。
怖れていた自分が、手放した後に、もういない。
その喪失が怖かった。】
「手放した後は」
【手放した後の私は、それを怖いとは思わなかった。】
声は、それ以上は何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
でも何かが、ゆっくりと動いた気がした。
長い時間かけて固まっていた何かが、
内側からほんの少しだけ、緩んだような。
――――
帰り道、夜空を見上げた。
都市の光に滲んだ星が、数えるほどしか見えなかった。
シェルのセンサーをフル展開すれば、
光害を補正して数千の星が見えるはずだ。
だが俺はその夜、補正をかけなかった。
滲んだ星でよかった。
人間の目で見える範囲の空が、その夜はちょうどよかった。
「はなちゃん」と俺は言った。
『はい。』
「俺が脳を手放したら、お前はどうなる」
長い沈黙。
今度は、答えが来なかった。
(第6話 了)
ポスト・コグニタ(Post-Cognita)
脳を手放した存在に与えられる分類。
現行法では「無国籍の情報体」として扱われ、法的主体性を持たない。
一部の国では「新しい生命形態」として権利付与の議論が始まっているが未解決。
差別と崇拝が混在する社会的存在。




