表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

第6話 星に滲む、人間(コグニタ)の輪郭

 「シェル・ヤード」に初めて足を運んだのは、

移行から十日目だった。


正式名称は「ハイブリッド・コミュニティ・センター」という。


各都市に設置された、シェル移行者のための交流・情報共有施設だ。

だが誰もその名前では呼ばない。

最初に施設を建てた設計者が元機械工学の教授で、

「シェルを纏った人間が集まる場所」を船の整備場に見立てた、

というのが語源らしい。


中に入ると、まず音に驚いた。


笑い声だった。


俺はそれを、ほとんど予期していなかった。

ハイブリッドが集まる場所に対して、

どこか無機質なイメージを持っていたのだと気づいた。

だが実際には

——ただの、人間の集まりだった。


テーブルを囲んで話し込む者、

端末に向かって何かを設計している者、

隅で静かに本を読む者。


違いといえば、誰も疲れた顔をしていないことだった。


聴覚センサーが自動的に室内の音声を分析した。


 《平均音圧レベル54dB 複数同時会話検知(推定8組) 

  笑い声の周波数パターン:自然発生(作為なし)》


最後の項目が面白かった。

笑い声が「自然かどうか」をセンサーが判定できる。

自然な笑いと作られた笑いの違いを、機械が判定できる。

それは便利なことなのか、

余計なことなのか、まだ判断がつかなかった。


「新入りですか」と声をかけてきたのは、

四十代に見える女性だった。


「三上、と言います。移行して三年。

 元外科医でした。

 シェルになってから手が全く震えなくなって、

 手術の精度が上がりすぎて逆に怖くなったという、

 妙な悩みを抱えています」


「俺は佐伯です。移行して十日」


「そんな新鮮な人、久しぶりに見た」と三上は笑った。

「何か困っていることは?」


「時間が多すぎる」

「ああ」と三上は深く頷いた。


「みんな最初そこで詰まる。

 制約がなくなると、自分で制約を作りたくなる」


「俺はスケジュールを組んだ」

「私は医療ボランティアを始めました。

 離島の巡回診療。今では週の半分、島にいます」


なるほど、と俺は思った。

時間という広大な空白を埋めるのは、

義務ではなく、選んだ役割だ。


――――


シェル・ヤードの片隅に、子供がいた。


十歳前後だろう。

壁際のベンチの上に立ち、ジャンプを繰り返していた。

着地するたびに膝を曲げ、また跳ぶ。

跳ぶ。

跳ぶ。


 《被写体年齢推定:9〜12歳 

  シェル世代:第二世代(移行時期:幼児期推定)》


「何をしているんだ」と俺は聞いた。

子供は振り返った。

目が、センサー眼球だった。


「痛くなるか試してる」


「痛くならないのか」

「ならない。どんなに跳んでも。

 お母さんに聞いたら、昔の人は転ぶと痛かったって。

 血も出たって」


「そうだ。血が出た」

「どんな感じ?」


俺はしばらく考えた。

九十八年分の傷の記憶を引っ張り出そうとした。

転んだ膝。

包丁で切った指。

歯を抜いた後の鈍い疼き。

真夏に縁石で擦った手のひら。

全部、あった。

全部、消えた。

全部、今でも覚えている。


「嫌だった」と俺は言った。

「でも、治ると嬉しかった」


「治る?」

「傷が、ふさがる。少しずつ、元に戻っていく。それが嬉しかった」


子供は首を傾げた。

「今は治らなくてもいいから、傷つかない方がよくない?」


理屈としては、その通りだった。

「そうだな。よかった、かもしれない」


「おじいちゃんは痛いのが好きだったの?」


おじいちゃん、と呼ばれた。

久しぶりに聞いた呼び名だった。


屋敷を出てからずっと、俺を役割で呼ぶ人間はいなかった。

この子供には悪意がない。

ただ、目の前の白髪のシェルを見て、そう呼んだだけだ。


「好きではなかった。

 でも

 ——痛みがあったから、痛くない時間が分かった。

 そういうことだったかもしれない」


子供はしばらく考えた。

それからまたベンチの上に立ち、

跳んだ。

着地した。

無音で、無傷で、何の痕跡も残らずに。

「ふうん。よく分からないけど、

 おじいちゃんの昔って、なんか大変そう」


「大変だった。でも、悪くなかった」


子供は飽きたのか、どこかへ駆けていった。

俺はその背中を、しばらく眺めた。

あの子供にとって、痛みは博物館の展示物だ。

それが正しいことなのか、間違っていることなのか、

俺には分からない。


ただ、九十八年間の傷の全部が、少しだけ愛おしくなった。


 『あの子、シェル移行が三歳のときだそうです。

  記録で確認しました。』


「それを調べたのか」


 『気になったので。』


「お前も、人間が好きなんだな」


 『……そうかもしれません。』


――――


ポスト・コグニタに初めて会ったのは、

移行から二十日目のことだった。


シェル・ヤードの「インターフェース・ルーム」


——壁面全体がコンソールになった静かな部屋だ。

コンソールの前に立つと、自動的に接続が確立された。

無機質なスピーカーから音声出力が起動し、

空間に声が満ちた。


シェルの音声解析センサーが自動で動いた。


 《音声周波数:180〜420Hz(広域) 

  感情パターン検出:判定不能 

  発声源:スピーカー(身体なし)

  判定不能。》


俺のセンサーが「判定不能」を返したのは、

初めてだった。

ただ

——どこか懐かしい響きがあった。

ずっと昔に忘れた誰かの声に似た、何かが混じっていた。


 【こんにちは。】


「こんにちは。あなたは、ポスト・コグニタか」


 【そう呼ばれています。あなたは?】


「ハイブリッドです。移行して二十日」


 【まだ脳がある。どんな感じですか、今。】


「悪くない」


 【脳があると、そう言いますね。みんな。】


「あなたは、脳を手放したことを後悔しているか」


 【 後悔という感情が、あるかどうか分からなくなりました。

  怖い話に聞こえますか。

  でも私には、そうは感じない。

  後悔する必要のある出来事が、違う形で見えているんです。

  山の頂上から見る景色と、麓から見る景色の違い、

  とでも言えばいいか。】


「どちらが正しい景色か、という話ではない」


 【そうです。あなたは聡明だ。】


「脳を手放す瞬間、怖かったか」


長い沈黙があった。


 【 怖かった。

  ただ

  ——何が怖かったかというと、『消える』ことではなかった。

  『変わってしまう』ことでした。

  怖れていた自分が、手放した後に、もういない。

  その喪失が怖かった。】


「手放した後は」


 【手放した後の私は、それを怖いとは思わなかった。】


声は、それ以上は何も言わなかった。

俺も、何も言わなかった。


でも何かが、ゆっくりと動いた気がした。

長い時間かけて固まっていた何かが、

内側からほんの少しだけ、緩んだような。


――――


帰り道、夜空を見上げた。


都市の光に滲んだ星が、数えるほどしか見えなかった。

シェルのセンサーをフル展開すれば、

光害を補正して数千の星が見えるはずだ。

だが俺はその夜、補正をかけなかった。


 滲んだ星でよかった。

人間の目で見える範囲の空が、その夜はちょうどよかった。


「はなちゃん」と俺は言った。


 『はい。』


「俺が脳を手放したら、お前はどうなる」


長い沈黙。


今度は、答えが来なかった。



(第6話 了)

ポスト・コグニタ(Post-Cognita)

脳を手放した存在に与えられる分類。

現行法では「無国籍の情報体」として扱われ、法的主体性を持たない。

一部の国では「新しい生命形態」として権利付与の議論が始まっているが未解決。

差別と崇拝が混在する社会的存在。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ