第5話 不変の身体と、24時間の広大な空白
九十八歳と三日目の朝、俺は初めて走った。
屋敷を出た翌日に借りた都市部のサービスアパートメント
——最低限の家具と、
充電ポートと、
外部ネットワーク接続端子だけが揃った機能的な部屋だ。
シェル移行者向けの設計で、台所には何もない。
食べる必要がないからだ。
俺は最初の夜、その「台所のない台所」をしばらく眺めた。
九十八年間、食事は一日の区切りだった。
朝飯を食べたら午前が始まり、昼食で折り返し、夕飯で一日が終わる。
そのリズムが、もうない。
だから朝が来ても、起きる理由がなかった。
充電が完了したというシグナルが視界の端に浮かんだ。
《充電完了 バッテリー残量100% 現在時刻05:14》
俺はそれを眺めて、とりあえず外へ出ることにした。
近くの河川敷だった。
早朝五時、人影はまばらだ。
夜明け前の空気が薄く白んでいて、川面が暗く光っていた。
俺はゆっくりと歩き出し、それから少しずつペースを上げ、
気づいたときには完全に駆けていた。
膝が、痛くなかった。
それだけで十分だった。
生身の頃、俺は走れなかった。
正確には「走れなかった」のではなく、
走るたびに代償が来た。
右膝の軟骨が三十代から少しずつ欠け、
五十代以降は階段を降りるたびに鈍く疼いた。
晩年は平地を歩くだけで翌朝に響いた。
だから走るという動作は、
俺の中でとっくに「若い頃の記憶の中にあるもの」になっていた。
今は違う。
足が地面を蹴るたびに、シェルの推進機構が滑らかに動く。
衝撃は関節ではなく、内部のダンパー機構が吸収する。
肺は存在しないが、擬似体性感覚が空気の流れを胸に届け続ける。
汗もかかない。
心拍数は一定に保たれたまま
——シェルに「上がる」心拍数はないのだが、
それでも何かが高揚していた。
《走行距離3.2km 最高速度14.1km/h 外気温9.8℃ 風速1.4m/s(東北東)》
俺は五キロ走った。
止まったのは、止まりたかったからではない。
もう少し、この感覚を味わっていたかったからだ。
河川敷のベンチに座り、川面を眺めた。
シェルの視覚センサーを紫外線帯域に切り替えると、
水面が微かに発光して見えた。
藻類の生体発光だ。
人間の目には永遠に見えなかった景色が、
そこにあった。
悪くなかった。
――――
問題は、夜になっても続いた。
疲れない。
眠くならない。
腹が減らない。
これが最初の二日間は解放感だったが、三日目の夜から、
奇妙な空虚さに変わった。
時計を見ると二十二時だった。
普段なら入浴して、ニュースを流しながら本を読んで、
二十三時には眠る時間だ。
だが今夜、やるべきことが何もない。
身体は疲れていない。
眠気もない。
ただ、時間がある。
二十四時間が、全部ある。
人間は「休息のための生き物」ではなかったのだと、
俺は初めて理解した。
疲れるから、休む。
腹が減るから、食べる。
眠くなるから、眠る。
あのリズムの中に、生きることの輪郭があった。
リズムが消えると、時間は輪郭を失う。
朝も夜も、区別がなくなる。
「はなちゃん」と俺は言った。
『はい。』
「スケジュールを組んでくれ。活動時間帯の設定と、
図的な休止時間を入れてほしい」
『休止、ですか。眠れないのに?』
「眠れないとは言っていない。眠る必要がないだけだ。違う」
『……なるほど。擬似休眠モードという設定があります。
シェルの処理速度を意図的に低下させ、
外部刺激への感度を落とす。
体感的には「うとうとしている」状態に近くなります。』
「それを毎晩八時間入れてくれ」
『了解しました。では今夜、二十三時から。』
翌朝
——正確には「翌朝」という感覚が戻った朝、
俺は擬似休眠から引き上げられた。
意識が戻る感触は、生身の頃の目覚めとは違った。
電源がオンになるような明確な切り替えではなく、
霧の中から歩いてくるような、ゆっくりとした回帰だった。
夢は見なかった。
ただ、「無」があった。
その無が、心地よかった。
生身の頃の朝は、目を開ける前から身体が不平を訴えてきた。
関節の重さ、残った疲労、昨日の天気の影響。
今は、何もない。
データだけがある。清々しかった。
問題が一つ解決すると、次の問題が見えてくる。
それもまた、悪くなかった。
――――
四日目に、雨の中を歩いた。
傘を差さなかった。
シェルは完全防水仕様だ。
雨粒が人工皮膚の頬や肩に当たるたびに、
視界の端でデータが点滅した。
《外気温11.2℃ 降水量3.4mm/h 風速0.8m/s
皮膚への接触圧:平均0.09g》
九十八年間、雨は「濡れるもの」だった。
生身の頃なら、今頃コートが重くなり、
靴の中が湿り、首筋が冷え込んでいたはずだ。
老体には、こういう天気が一番こたえた。
翌日の関節に必ず影響が出た。
だが今は違う。
送られてくるデータに合わせて、
擬似体性感覚が「冷たさ」という信号だけを中枢に届けてくる。
そこに「寒さ」も「不快感」も「翌日の心配」も一切伴わない。
雨はただ、感じるものになっていた。
アスファルトを叩く雨音が、
聴覚センサーを通じて澄み切った音楽のように響いていた。
信号待ちで、隣に老人が立った。
いや
——老人に見える、ハイブリッドだった。
白髪に刻まれた皺、曲がった背中。
しかしその目だけが、妙に鮮明だった。
センサー眼球の光だ。
俺と同じ光が、濡れた顔の中に宿っていた。
傘を差していなかった。
「雨、好きですか」と老人が言った。
「今日から好きになりました」と俺は答えた。
老人は笑った。
「私は移行して十二年になる。
最初の一年は何もかもが新しかった。
二年目からは何もかもが当たり前になった。
あなたは今、一年目ですね」
「三日目です」
「ならもっとたくさん、驚いておくといい」と老人は言った。
「当たり前になる前に」
信号が青になり、老人は傘も差さずに歩いていった。
俺はその背中を、しばらく眺めた。
シェルの視覚センサーが自動で追尾し、
背中の熱放射パターンを検出していた。
《皮膚表面温度34.1℃ 発熱なし 正常値》
どこから見ても、ただの老人だった。
――――
その夜、はなちゃんに聞いた。
「移行して十二年、という人に会った」
『どんな方でしたか。』
「最初の一年は新しく、二年目からは当たり前になると言っていた」
『なるほど。』
「俺は当たり前にしたくない、と思った」
しばらく間があった。
『どうしてですか。』
「分からない」と俺は言った。
「ただ——
新しいまま、驚いたまま、ずっと進んでいけたら、と思った」
『それは、佐伯さんが最初から持っていたものだと思います。』
「なぜ」
『光速の二十八パーセントを見て、
もう少し見ていたいと思った人が、
そう言っています。』
俺は窓の外を見た。
雨はまだ続いていた。
街灯が雨粒を照らして、光の糸が無数に降っていた。
シェルの視覚センサーを通すと、
その一本一本の軌跡が正確に計測できた。
でも俺はその夜、計測モードをオフにした。
ただの、雨でよかった。
(第5話 了)




