第4話 98歳と1日目の、孤独な門出
転機は昼過ぎに来た。
達郎が、屋敷の土地の売却を提案した。
「この立地なら、デベロッパーに打診すれば相当な額になる。
現金化して分割するのが一番揉めない」
室内が、一瞬静かになった。
克也が初めて顔を上げた。
「この家を売る、ということか」
「感情で判断するのは——」
「俺が生まれた家だ」と克也は言った。
声が低かった。
七十二年間、温厚で、
不満を飲み込み続けてきた長男の声だった。
「母さんが死んだ家だ」
達郎は一秒だけ黙り、それから続けた。
「だからこそ、みんなで公平に分けるべきでしょう。
思い出に値段はつけられませんが、不動産には——」
そこで俺は、吐き気を感じた。
おかしな話だ。
俺にはもう、胃も食道も自律神経もない。
嘔吐反射を起こす器官は存在しない。
それでも確かに、何かがせり上がってきた。
擬似体性感覚フィードバックの誤作動か、と俺はしばらく考えた。
違う。
これはシステムの問題ではない。
九十八年かけて培われた、人間としての反応が、
シェルの神経インターフェースを通じて再現されているのだ。
俺の身体は新品だ。
だが俺の嫌悪は、本物だった。
――――
誰も、俺の新しい身体について何も言わなかった。
「綺麗な関節ですね」とも「高そうな人工皮膚ですね」とも聞かない。
今朝この部屋に入ってきたとき、六人は俺を一瞥しただけで、
すぐに田中公証人の書類へ視線を戻した。
無理もない、と俺は思う。
この時代、シェル・トランスファーは特別なことではない。
人口の六割が何らかの形で経験している、
ありふれた医療手続きだ。
彼らにとって俺の新しい身体は「驚くべき何か」ではなく、
少し値の張るハイテクな骨壺か、
あるいは精巧に動く喋る墓石のようなものだろう。
骨壺の素材をわざわざ褒める遺族はいない。
それに——もう一つ、理由がある。
もし誰かが俺の目を真正面から見てしまえば、
そこに意識があることを実感してしまう。
父親がまだ「生きている」と分かってしまえば、
目の前の数字を切り分ける手が鈍る。
だから彼らは意図的に、俺を「見ない」。
誰も俺の目を見なかったのは、偶然ではない。
あれは、選択だ。
俺はその選択を、咎めない。
人間はみな、都合のいい現実を選ぶ。
それが生きることだ、と九十八年間で学んだ。
――――
午後三時十七分。
田中公証人が「本日はここまでとし、次回の協議日程を——」
と言いかけたとき、俺は立ち上がった。
六つの視線が、一斉に集まった。
俺が初めて動いたからだ。
俺は田中に向かって、静かに頭を下げた。
発言権はないが、礼儀まで剥奪されてはいない。
それから六人を、一人ずつ見た。
克也、
典子、
由美子、
達郎、
誠、
ルミ。
今度は——誰かが、俺の目を見た。
克也だった。
一瞬だけ。
すぐに視線を逸らした。
でも確かに、見た。
それだけで、十分だった。
俺は応接室を出た。
廊下を歩いた。
玄関を出た。
振り返らなかった。
この屋敷で生まれ、この屋敷で七十年を超えて暮らした。
妻を看取った部屋も、子供たちが走り回った廊下も、
庭の古い柿の木も——全部、置いていく。
未練はある、と思った。
しかしそれは、これまでの話だ。
俺は今日から九十八歳と一日目だった。
――――
門の外に出たとき、空が広かった。
シェルの視覚センサーは可視光域を超えて拡張されている。
紫外線の帯域で見ると、秋の空は微かに紫がかって見える。
人間の目には絶対に見えなかった色だ。
悪くなかった。
『お疲れ様でした。』
「見ていたか」と俺は聞いた。
『音声データは受信していました。』
「感想は」
少し間があった。
〇・三秒ではなく、今度は少し長い。
〇・八秒。
『人間は——愛しているものを、
お金に換算することがありますね。』
俺は空を見たまま、答えなかった。
風が来た。
シェルの皮膚センサーが、気温十七度、風速二・三メートルと告げた。
それとは別に、何か冷たいものが頬に触れた気がした。
ただの誤作動だろう、と俺は思った。
思うことにした。
――――
その夜、俺は屋敷を出た。
荷物はなかった。
持っていくべきものは、すでに全部、この新しい身体の中にある。
九十八年分の記憶、
九十八年分の判断、
九十八年分の後悔
——それだけあれば、十分だった。
『どこへ行きますか。』
「まだ決めていない」
『では——一緒に考えましょう。』
俺は歩き出した。
足音のしない足で、夜の中を。
もう誰も、俺を「おとうさん」と呼ばない。
もう誰も、俺を「おじいちゃん」と呼ばない。
それがこれほど
——清々しいものだとは、思わなかった。
(第4話 了)




