第3話 汗をかく欲望、九ポイントの明朝体
子供が三人いる。
長男の克也は七十二歳。
次男の誠は六十四歳。
長女の由美子は六十八歳。
三人とも配偶者を連れてきた。
俺の屋敷の応接室に、計六名が並んでいる。
それから——俺も、いる。
法的には、俺はこの場に存在しない。
ソーマティック・デス証明書の発行日は先月の十四日。
民法上、俺はすでに死んでいる。
だが遺留分留保申請の条項に基づき、
「被相続人の意思確認のため、本人の同席を認める」とある。
発言権はない。
議決権もない。
ただ、見ていていい。
俺は部屋の隅の椅子に座り、六人の顔を順番に眺めた。
誰も、俺の目を見なかった。
――――
公証人の田中という男が、低い声で書類を読み上げ始めた。
資産の総額、
不動産の評価額、
金融資産の内訳。
数字が積み重なるたびに、室内の空気の密度が変わるのを俺は感じた。
シェルの環境センサーが、変化を拾い始める。
視界の端に、静かなデータが流れた。
《室温21.4℃ → 21.8℃ 湿度52% → 57% 検知:微量発汗(6名)》
人間は、金の話をするとき、汗をかく。
九十八年間、俺も同じだったはずだ。
重要な商談の前、契約書にサインする瞬間、利率の交渉をするとき
——手のひらが湿った。
今はその感覚がない。
代わりに、他人の汗が数値になって見える。
まず動いたのは、長男・克也の妻——典子だった。
七十歳になる典子は、若い頃から帳簿を持ち歩く女だった。
家計簿ではない。
俺の家に来るたびに、
食器棚の食器の数、
掛け軸の年代、
庭の樹木の種類を、何気なく数えていた。
俺がそれに気づいたのは、克也と結婚して三年目の正月のことだ。
あの頃はまだ、かわいらしい几帳面さだと思っていた。
「こちらの不動産評価ですけれど」と典子は言った。
声が柔らかすぎた。
シェルの聴覚センサーが音声を解析する。
《基本周波数220Hz 音圧レベル52dB 話速:通常比0.82倍》
ゆっくり、丁寧に、柔らかく。
準備してきた声だ。
「築年数で減価されているようですが、
この屋敷は歴史的建造物の登録申請が出来るはずです。
そうなれば評価額は——」
「母屋の話は後でいい」と、次男・誠の妻——ルミが遮った。
ルミは五十八歳。
誠より六歳若く、結婚前は何かの会社の営業をしていたと聞いた。
誠の稼ぎでは足りない部分を、
ルミ自身の収入で補ってきたことを俺は知っている。
それがいつしか
「私が一番この家族に貢献している」という確信に変わっていた。
割り込みの瞬間、
《ルミの声:基本周波数280Hz 音圧+8dB 上昇イントネーション検知》
「現金資産を先に確定させてください。住宅ローンの残債が——」
「残債って、それはあなた方の問題でしょう」と典子が静かに言った。
「何ですって」
「お義父さんの資産とは別の話、ということです」
声が重なりはじめた。
典子とルミが互いの言葉を遮り合い、
長女の夫・達郎が「法定相続分というものがあります」と割り込む。
三つの声が同時に室内を満たした。
俺は静かに腕を組んだ。
シェルの聴覚センサーは指向性を持つ。
俺は三人の声を全て同時に、等しい音量で処理した。
誰の言葉も遮らず、誰の感情にも引きずられず、
ただデータとして受け取った。
《典子:基本周波数228Hz(上昇)
ルミ:音圧68dB(最大)
達郎:話速0.71倍(緩急で権威を演出)》
三種類の欲望が、三種類の声になっていた。
俺は視線を、部屋の端へ動かした。
克也が、窓の外を見ていた。
七十二歳になった長男は、この席でまだ一言も発していない。
議論の外にいるように見えた。
ただ、その横顔が少しだけ強張っているのを、俺は見ていた。
二十代の頃の克也は、声がよく通る子だった。
運動会の応援で一番大きな声を出して、後から喉を痛めて帰ってきた。
それを叱ったことを、今でも覚えている。
あの子がこんなに静かになったのは、いつからだろう。
俺は眼球センサーのズーム機能を、ごく自然な動作で切り替えた。
田中公証人の手元の書類が鮮明になる。
数字の羅列。
俺がこの七十年余りで積み上げたものが、
フォント九ポイントの明朝体で並んでいた。
感慨はなかった。
ただ少し、滑稽だと思った。
(第3話 了)




