第2話 呼吸を忘れた胸、新しい名前
手術は七時間かかった。
正確には「手術」という言葉は正しくない。
医療チームは「移行処置」と呼んでいた。
メスは使わない。
ナノスケールのアクチュエーターが皮膚の下に潜り込み、
神経繊維一本ずつを電子経路に置き換えていく。
臓器は順番に機能を停止させ、対応するシェル・モジュールへ制御を引き渡す。
肺、肝臓、消化管、骨格筋
——最後に心臓。
意識は途切れなかった。
それが最も奇妙だった。
何かが変わる感覚もなく、痛みもなく、ただ世界が少しずつ「静か」になっていった。
ノイズが消えるように。
関節の軋みが、消えた。
九十八年間、朝ごとに俺を苦しめてきた左膝の疼きが、
ある瞬間からぴたりと止んだ。
慢性的な腰の重さが、落ちた。
胸の奥でずっと低く鳴り続けていたペースメーカーの振動が
——静かになった。
九十八年間ずっとそこにあった、肉体という背景雑音が、
一つずつ、丁寧に消えていった。
そして——軽さだけが残った。
視界の端に、小さな文字が浮いていた。
《体温36.2℃ 外気温22.1℃ バッテリー残量98% 神経同期率99.7%》
それが今の俺の「朝」だった。
痛みも、だるさも、渇きも、何もない。
ただデータだけがある。
生身の頃は目を開ける前から身体のどこかが不平を訴えていた。
今はそれがない。
代わりに数字がある。
担当医が言った。
「深呼吸を試してみてください」
俺は息を吸った。
肺はもうない。
酸素交換はシェルの電気化学的プロセスが担っている。
それでも、空気が胸腔を満たす感覚があった。
横隔膜が下がり、肋骨が広がり、血液が全身を駆け抜けるあの清々しさ——。擬似体性感覚フィードバック、とマニュアルには書いてあった。
存在しない臓器の記憶を、神経に送り続けるシステム。
馬鹿げている、と思った。
同時に、目が熱くなった。
九十八年間、俺はこの感覚と共に生きてきた。
朝一番に深く息を吸う、ただそれだけの、何でもない感覚。
雨上がりの外気が胸に広がるときの感じ。
それが今も、ここにある。機械の胸の中に。
「涙腺は」と俺は尋ねた。
声が、聞き慣れない。
自分の声が外部スピーカーを通して戻ってくる、その微細な遅れに、
まだ慣れない。
「ちゃんと残してくれたか」
担当医は困ったように微笑んだ。
「標準仕様に含まれています」
――――
退院は移行処置から三日後だった。
病院の廊下を歩きながら、俺はいくつかのことに気づいた。
まず、足音がしない。
チタン合金と高分子素材で構成されたシェルの足裏は、
歩行時の衝撃を内部で完全に吸収する。
生身の頃、廊下を歩けば必ず靴底が鳴った。
夜中にトイレへ立つたびに、その音で誰かが目を覚ますことを気にしていた。今はそれがない。
自分の足音がしない、というのは、奇妙な感覚だった。
まるで幽霊みたいだ、と俺は思った。
次に、気温が分かりすぎる。
廊下の空調が二十一・三度に設定されていること、
窓際の方が〇・八度高いこと、
すれ違う看護師の皮膚表面が三十六・一度であることが、
視界の端に流れた。
生身の頃は「なんとなく涼しい」と感じるだけだった場所が、
今は精密な数値になっている。
便利だとは思う。
どこか、寂しくもある。
屋敷に戻ると、玄関のホール端末が起動した。
見慣れないインターフェースだった。
建築当初からある古い端末ではない。
退院に合わせて設置された、新しいシステムだ。
薄い青緑色の光が空中に広がり、テキストが浮かぶ。
光の粒子が集まるように文字が形を成し、
俺の眼球センサーが自動でピントを合わせた。
『こんにちは。HANAです。これからよろしくお願いします。』
「HANA」と俺は読み上げた。
「Holistic Adaptive Neural Architecture。超高度支援AIか」
『そうです。ただ、呼びにくければ別の名前でも構いません。』
俺はしばらく考えた。
光の中の文字を眺めながら、何か遠いものを思い出そうとするように。
機械の指先が、無意識に廊下の壁に触れた。
ひんやりとした漆喰の感触——ではなく、
《表面温度19.4℃ 素材:漆喰》
というデータが来た。俺は指を離した。
窓の外で、庭の柿の木が風に揺れていた。
「はなちゃん、でいい」
『……はなちゃん、ですか。』
少しだけ間があった。
AIにしては不自然な、〇・三秒ほどの沈黙。
演算遅延ではない。
処理能力から言えば、一ミリ秒もかからないはずの返答が、
三百ミリ秒遅れた。
なぜ、と俺は思った。しかし問わなかった。
『わかりました。はなちゃんと呼んでください。』
俺は答えなかった。
靴を脱ぎ、廊下を歩いた。九十八年間歩いてきた廊下を、新しい足で。
足音がしなかった。
それだけが、少し寂しかった。
(第2話 了)




