表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第1話 98歳の決断、光速の28パーセント

2248年、9月


 俺は死ぬつもりだった。


正確に言えば、死を「受け入れる」つもりだった。

九十八年間、この有機体の檻の中で生きてきて、

そろそろ潮時だと思っていた。


その朝も、目覚めはひどかった。


天井の投影パネルが自動点灯する前に、身体の方が先に意識を引き戻した。

左膝の鈍い疼き。

右肩の可動域が昨日よりまた少し狭くなった感覚。

ベッドの端に腰を下ろすだけで、腰椎が低く鳴った。

それが「起き上がる」という動作の全てだった。

気合でも覚悟でもない。

ただの、毎朝の手順だ。


心臓はペースメーカーなしでは一日と持たない。

腎臓は十年前から機械に任せている。

左眼の網膜はとっくに人工物だ。

もはや「俺」の何パーセントが本物の俺なのか、主治医でさえ答えを濁す。


九十八年間、この身体で生きてきた。


転んで血が出た膝も、徹夜明けの目の痛みも、真夏に汗をかきながら走った記憶も、全部ここにあった。

今はもうそのほとんどが、数値とセンサーに置き換わっている。

それでも俺はこの身体を、捨てるつもりはなかった。

天寿というものがあるなら、この重さごと引き取ってもらうつもりでいた。


だが、テクノロジーは待ってくれなかった。


天井に投影されたニュースフィードが、静かにその数字を告げた。

欧州宇宙機構とアジア連合が共同開発したラグランジュ・スキッピングの第四世代エンジンが、試験航行で光速の二十八パーセントに達した、と。

人類が初めて恒星間航行の射程に入った瞬間だった。


俺は起き上がることもせず、その数字をしばらく眺めた。


〇・二八c。


光の速さの二十八パーセント。


俺が生まれた頃、人類はまだ月にすら満足に行けなかった。

火星に人間が降り立ったのが三十代の頃。

木星圏に有人基地ができたのが六十代。

そのたびに俺は「次はどこまで行くのか」と思い続けてきた。

行けるはずがないと言われた場所に、人間はいつも少しずつ届いてきた。


九十八年生きてきて、人類はここまで来た。

では、あと十年後には。二十年後には——。


「先生」と俺は呟いた。


「もう少しだけ、見ていたい」


誰もいない部屋に、俺の声だけが落ちた。


シェル・トランスファーの申請書類は、思ったより簡素だった。


書斎の机に向かったのは、その夜だった。

長年使ってきた重い木製の机だ。

天板には細かな傷がいくつもある。

書類にサインするたびに、万年筆の先が滑ってついた跡だ。

九十八年分の決断が、ここに刻まれていた。


A4三枚。


移行後の法的地位に関する同意書、

有機組織の廃棄に関する委任状、

そして「ソーマティック・デス証明書」の発行申請。

最後のページの末尾には小さな注記がある。


本申請をもって、申請者は民法上の()()()として扱われます。

ただし遺留分留保申請を同時に行うことで、

資産の一部は本人に帰属します。


死亡者、か。


俺は窓の外を一度見た。

夜の庭に、古い柿の木の影が揺れていた。

何十年も前から、あそこにある木だ。

毎年秋になれば実をつけ、誰かが食べ、また次の年を迎える。

俺がいなくなっても、あの木は変わらずそこにあるだろう。


俺は万年筆でサインした。

九十八年間ずっとそうしてきたように。


手が震えなかったのは、覚悟があったからではない。


すでに手が機械だったからだ。



(第1話 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ