第1話 98歳の決断、光速の28パーセント
2248年、9月
俺は死ぬつもりだった。
正確に言えば、死を「受け入れる」つもりだった。
九十八年間、この有機体の檻の中で生きてきて、
そろそろ潮時だと思っていた。
その朝も、目覚めはひどかった。
天井の投影パネルが自動点灯する前に、身体の方が先に意識を引き戻した。
左膝の鈍い疼き。
右肩の可動域が昨日よりまた少し狭くなった感覚。
ベッドの端に腰を下ろすだけで、腰椎が低く鳴った。
それが「起き上がる」という動作の全てだった。
気合でも覚悟でもない。
ただの、毎朝の手順だ。
心臓はペースメーカーなしでは一日と持たない。
腎臓は十年前から機械に任せている。
左眼の網膜はとっくに人工物だ。
もはや「俺」の何パーセントが本物の俺なのか、主治医でさえ答えを濁す。
九十八年間、この身体で生きてきた。
転んで血が出た膝も、徹夜明けの目の痛みも、真夏に汗をかきながら走った記憶も、全部ここにあった。
今はもうそのほとんどが、数値とセンサーに置き換わっている。
それでも俺はこの身体を、捨てるつもりはなかった。
天寿というものがあるなら、この重さごと引き取ってもらうつもりでいた。
だが、テクノロジーは待ってくれなかった。
天井に投影されたニュースフィードが、静かにその数字を告げた。
欧州宇宙機構とアジア連合が共同開発したラグランジュ・スキッピングの第四世代エンジンが、試験航行で光速の二十八パーセントに達した、と。
人類が初めて恒星間航行の射程に入った瞬間だった。
俺は起き上がることもせず、その数字をしばらく眺めた。
〇・二八c。
光の速さの二十八パーセント。
俺が生まれた頃、人類はまだ月にすら満足に行けなかった。
火星に人間が降り立ったのが三十代の頃。
木星圏に有人基地ができたのが六十代。
そのたびに俺は「次はどこまで行くのか」と思い続けてきた。
行けるはずがないと言われた場所に、人間はいつも少しずつ届いてきた。
九十八年生きてきて、人類はここまで来た。
では、あと十年後には。二十年後には——。
「先生」と俺は呟いた。
「もう少しだけ、見ていたい」
誰もいない部屋に、俺の声だけが落ちた。
シェル・トランスファーの申請書類は、思ったより簡素だった。
書斎の机に向かったのは、その夜だった。
長年使ってきた重い木製の机だ。
天板には細かな傷がいくつもある。
書類にサインするたびに、万年筆の先が滑ってついた跡だ。
九十八年分の決断が、ここに刻まれていた。
A4三枚。
移行後の法的地位に関する同意書、
有機組織の廃棄に関する委任状、
そして「ソーマティック・デス証明書」の発行申請。
最後のページの末尾には小さな注記がある。
本申請をもって、申請者は民法上の死亡者として扱われます。
ただし遺留分留保申請を同時に行うことで、
資産の一部は本人に帰属します。
死亡者、か。
俺は窓の外を一度見た。
夜の庭に、古い柿の木の影が揺れていた。
何十年も前から、あそこにある木だ。
毎年秋になれば実をつけ、誰かが食べ、また次の年を迎える。
俺がいなくなっても、あの木は変わらずそこにあるだろう。
俺は万年筆でサインした。
九十八年間ずっとそうしてきたように。
手が震えなかったのは、覚悟があったからではない。
すでに手が機械だったからだ。
(第1話 了)




