第88話:いわせ すずえの栞と、重すぎる入場料
彼女の事だ、大好きな絵師と俺が同一人物ということは、だいぶ前から気がついていたのではないか。
そして、俺に対する気持ちに折り合いをつけるために、必死に証拠を集め、自分を納得させようとしていたのだろう。
「……あなたには、もう、隣にいる人がいます。
私では……到底、敵わない人です」
陽菜のことだ。
それをわかっているにも関わらず、彼女は俺にこうして想いを伝えているのだ。
「だから、せめて……初めての男性の……
『お友達』になって、いただけませんか?」
椅子から立ち上がって、深々とお辞儀するのが、いかにも岩瀬さんだ。
「……ありがとう。俺みたいなモブで良ければ、喜んで」
そう告げた俺に、岩瀬さんはたしなめるように言った。
「やめてください……。
私にとって、あなたはもう、モブなんかじゃありませんから」
そうだった。
少なくても、目の前に俺が創り出した作品を喜んでくれる人がいる。
この人が見る俺は、モブじゃなくて『推し絵師』なのだ。
「あの……お友達の印として……」
岩瀬さんは制服のポケットからごそごそと取り出した。
「これは……私が幼い頃から使っている栞です。
……誉田くんに、差し上げます」
俺の目の前にそっと置かれたのは、古びた、でも大切に保存された押し花の栞だった。
「えっ、そんな大事なもの……」
「ご理解ください。あなたは……
私にとってそういう人、なのです」
かすかに花の香りが残る、「いわせ すずえ」と記された栞を手に取る。
「わかった。よろしくね、岩瀬さん」
「な……名前で呼んでください。
私もあなたを……灯くん、と呼びたいから……」
「ありがとう……鈴江ちゃん」
「よろしくお願いします……灯くん……では」
もう一度、深々とお辞儀して、鈴江ちゃんは書庫スペースを出て行った。
「鈴江……ちゃん」
一人残された俺は、鈴江ちゃんの分身のような古びた栞をながめていた。
告白、なんて生ぬるいものじゃなかった。
これは、俺という表現者を逃がさないための、たった一人のファンミーティング。
鈴江ちゃんが差し出した古びた栞は、俺が一生背負い続けなければならない、一番重い『期待』という名の入場料だった。
翌日の放課後。
部活動へ向かう生徒たちで賑わう廊下で、いつものポニーテールを見つけた。
陽菜だ。
視線を感じた恋人は、振り向いて俺を見つけた。
いっしょにいた部員になにか話した後、俺に向かって手を振る。
そして、踊るような足どりで、近づくロイヤルブルーのジャージ。
弾けるような笑顔の後ろで、ポニーテールの穂先がふわんふわんと揺れる。
「陽菜……ごめん、直接伝えたくて」
恋人が小首をかしげる。
俺は、大きく息を吸い、陽菜に言いきかせるように言った。
「例の件、受けることに決めた。
瑞恵さん……塩浜さんの奥さんの絵……俺が描く」
幼なじみは、俺の目をじっと見つめる。
彼女の瞳の奥に、俺は太陽を見た。
「そっか」
そう言うと、陽菜はいたずらっぽく笑うと、薄暗い階段の下に手招きした。
「どうしたんだよ……わっ///」
ぎゅっ。
「ごめん……ちょっとだけ///」
ロイヤルブルーの腕が背中に回り、若鹿のような身体がぴたりと重なる。
すぅ……すぅ……
すぐそばで聞こえる、恋人の深い息遣い。
廊下の喧騒が、遠くの波音のように聞こえる。
「……私、引き受けるって言うと思ったよぉ///」
俺のワイシャツに頬を押し当て、安心したようにつぶやく陽菜。
「正直、塩浜さんや陽菜、このことを知った人たち……
その期待に応えられるか、怖い……自信はないよ」
俺も、彼女の背中に手を回した。
制服の時よりダイレクトに伝わる体温。
「でも……逃げたら、きっと後悔する」
「……大丈夫、今のともくんなら、絶対に素敵な絵が描けるよ。
……私が保証するって、いったでしょ?」
陽菜の言葉に、俺は少しだけ照れ臭くなって頭を掻いた。
「そうだな……最高の『かえるくん』の保証を、無駄にしないように……頑張るよ」
ぎゅっ……ぎゅっ。
名残惜しそうに、陽菜は身体を離した。
顔は赫らみ、潤んだ瞳は宝石みたいに輝いている。
「もう……行かなきゃ……行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい。頑張ってな」
手を振って駆けだそうとした陸上少女は、クルリと振り向いて、ニッコリと告げた。
「……ともくんに、ぎゅっとしてもらった次の日の練習、調子良いんだよ!
今、ぎゅっとしてもらったから、練習楽しみ!」
俺に手を振って、恋人は今度こそ練習に駆けだしていった。
いつも、抱きしめるのは部活帰りなので、翌日の練習の調子が良いのだろう。
「ありがとう……俺も、陽菜にぎゅっとしてもらうと、調子が良いんだ」
弾むように駆ける、陸上部の次期エースの背中を眺めてつぶやく。
小気味よく揺れるポニーテールの穂先、一本一本が見える。
そして、ロイヤルブルーのジャージのわずかな陰影も目に入ってくるように見える。
俺は確信した。
俺に触れた陽菜に何か不思議な力が宿るように、俺も陽菜から不思議な力をもらっている。
『最近、誉田くんの回りで、何か変わったことはないか?
ということを、僕は聞いておきたいですね』
陽菜の大会前、田辺先輩がウチの高校に来た時、俺に言った言葉をを思い出す。
あの時は、モブな俺にそんな力があるわけがない、田辺先輩の勘違いと思っていたが、自分の視界が普通じゃない鮮やかさで見えるいま、勘違いとは思えなくなった。
鈴江ちゃん、つくばさん、典子先輩、そして陽菜。
改めて思い返すと、俺が触れたり近づいたりすると、みんな様子がおかしくなっていった。
「……いや、今は塩浜さんの絵に集中しなくては」
深く考えたところで、解決策など思い浮かぶこともない。
まずは、目の前の課題に全力で取り組むだけだ。
俺はカバンを背負いなおし、今日の絵画教室のレッスン会場、日立先生のアトリエに向かった。
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
鈴江ちゃんから託された、古びた押し花の栞 。 それは、一人の表現者として逃げ場を失くす、一番重い「期待」という名の入場料だった。 陽菜。つくばさん。典子先輩。そして、鈴江ちゃん 。 俺が触れるたび、みんなの何かが変わっていく。 ……いや、今はただ、描こう。 俺にしか見えない「質感」で、彼女を連れてくるんだ 。
次回、第89話『情念の解像度、あるいは「再会の仮説」』 さあ、発掘を始めよう。モノではなく、魂の 。




