第79話(第四章完結):祭りのあとの溶剤と、穴熊毛の卒業証書
更衣室で作業着を脱ぎ、制服に着替える。
ロッカーの中が空っぽであることを確認し、通学カバンを抱えた。
リネン用のかごには、先に退出したハチさんの八百屋の衣装や、ジョーさんの派手なジャケットとシャツが無造作に放り込まれている。
俺は手にした作業着を表裏、じっくりと眺めた。
ペンキのシミ、溶剤の匂い、銀さんと並んで仕事をした証。
「……お疲れ様。今までありがとう」
小さく呟いて、俺はもう二度と着ることのない作業着を丁寧に畳んで、かごの一番上にそっと置いた。
更衣室を出て倉庫の出口に向かうと、銀さんと大船さんが待っていた。
「すみません、遅くなりました」
これでこの仕事が本当に終わる。
現場監督の責任の元、貸与されたIDカードを返却しなければならない。
事務的な手続きを終え、大船さんに挨拶をする。
大船さんは「神栖さんによろしくね」と、ポツリと言った。
こう見えて、陽菜や俺のことを気にかけてくれていたのだ。
銀さんと二人、通用口をくぐる。
外はすっかり日が落ちて、夜の空気が肌を刺す。
モールの灯りが、いつもより遠く感じられた。
「……今日でここの仕事は終わりだ。
お疲れさん。……元気でな。
水玉の姉ちゃん、泣かすなよ?」
銀さんが足を止め、からかうように言った。
「銀さん……」
「お前、シケた顔すんなって。
これからこんな別れは腐るほどあるぞ。
……たかだかこんなことで泣きそうになってたら、この先、仕事なんてやってらんねぇぞ」
「でも、銀さん、日立先生に『僕を育ててみたい』って言ってたじゃないですか……」
自分でも往生際が悪いと思うが、「まだ、いっしょに仕事がしたい」「仕事とは何か教わりたい」という自分の気持ちに嘘はつけない。
俺の言葉に、銀さんはニヤリと笑い、肩から下げていたメッセンジャーバッグをごそごそと探った。
「招き猫の違和感……あれをお前が言い出したとき、俺が教えることと、教えたいことは、全部お前に伝わったと思ったよ。
……坊主、あとはお前が自分自身で躓いたり転んだりして学んでいくんだ」
銀さんが取り出したのは、柊珈琲店のロゴが入った紙袋だった。
「これは……さしずめ、卒業証書とでもいったところかな。
昼間に店にいったら預かった。直美ちゃんと、紬ちゃんからの餞別が入ってる」
「え……?」
渡された紙袋はずっしりと重かった。
中を覗くと、コーヒー豆の小瓶と、手作りクッキーの袋。
そこには『ともるおにいさん おつかれさま』と、紬ちゃんのつたない文字で書かれたメッセージカードが添えられていた。
そして、その奥に。 使い込まれた、一本の刷毛が入っていた。
「これ……!」
息を飲む。
柄の部分が飴色に変色した、穴熊毛のぼかし刷毛。
高級品だ。
銀さんが大事な箇所の仕上げや、繊細なボカシを入れる時にだけ使っていた、職人の魂とも言える道具。
「銀さん……これ、大事なヤツじゃ……」
「そろそろ、買い替えようと思ってたところだ。
中古で悪いが、お前ならちゃんと使うと思ってな。
……頑張った褒美と言っちゃなんだが、俺からの餞別だ。……やるよ」
銀さんは照れくさそうに鼻をこすった。
「……くれぐれも、神棚に飾ったりするなよ? 道具は使ってナンボだ」
そう言って、銀さんは片手を上げ、踵を返した。
「銀さん!」
俺は慌てて、その背中に向かって叫んだ。
深く、深くお辞儀をする。
「あ……言い忘れるとこだった」
数歩歩いたところで、銀さんが立ち止まり、振り返った。
「また、いけなみで軍鶏鍋食おうな」
街灯に照らされたその顔は、職人の厳しい顔ではなく、どこまでも柔らかな笑顔だった。
涙が溢れそうになるのをこらえ、俺は顔を上げた。
「は……はい! その時は、僕がご馳走します!」
「ガハハ……生意気言うな、坊主。甘えられるうちは甘えておけよ。
俺に奢る金があるなら、水玉の姉ちゃんに使ってやりな。……じゃあな!」
銀さんは大きく手を振り、夜の闇へと歩き出した。
その背中は大きく、そして揺るぎなかった。
俺は、銀さんの姿が街灯の陰に消えて見えなくなるまで、その場から動けなかった。
手の中にある紙袋を、ギュッと握りしめる。
指先に伝わる刷毛の硬い感触が、俺に「次へ行け」と言っているような気がした。
【担当:塩浜重三郎(茨城のドン/絵画教室の生徒)】
素晴らしい仕事だったよ、灯くん。
君が描いたあの「嘘の街」には、今の最新技術(AI)には逆立ちしても真似できない、 「生きた人間」の匂いが漂っていた。
だからこそ、私は君に託したいんだ。 私の人生において、唯一、どうしても色が思い出せない「あの日」の記憶を。
君なら、彼女に……瑞恵に、もう一度会わせてくれるんじゃないか?
次回、新章(最終章)突入。
第80話『情念の画家、あるいはドンからの依頼』 ……灯くん。これは、私から君への「本気の相談」だ。




