第78話:安っぽい光沢、本物の重厚感
銀さんが脚立を降りてきた。
俺は慌てて拭き取りを終え、コンパウンド(研磨剤)のついたネル布に持ち替えた。
ここからは「磨き」の時間だ。
後ろを振り返ると、銀さんが塗料の一斗缶やエアブラシの器具をブルーシートの上に並べていた。
きっと、撤収のためだろう。
再び、無心で手を動かす。
コンパウンドで磨くたび、曇っていた表面から、徐々に光沢が現れる。
照明を反射して、テカテカと輝く樹脂の質感。
ピカピカの表面は、俺の顔が映るほど綺麗だ。
しかし、そこには何の深みもない。
「やっぱり……違う」
思わず独り言が漏れる。
昨日の会場で見た、塩浜さんのダークネイビーのスーツのことだ。
照明を浴びてもテカテカと安っぽく光らず、しっとりと光を吸い込むような、深みのある生地。
比べるものではないけど、同じように照明が当たっていても、招き猫と塩浜さんのスーツとはこうも光の質感が違うのか。
きっと、あれが「本物」の質感というものなのだ。
いくら俺たちが塗装で「時間」を演出しようとしても、あの滲み出るような重厚感までは作れない。
それは長年積み重ねてきたものだからこそ醸し出せるものだ。
やはり、嘘は嘘でしかないのだろうか。
キュキュッ。
ツヤツヤの表面が音を立てる。
もうこの場所はじゅうぶん磨けた。
ネル布にコンパウンド材を含ませて、横っ腹の曇った箇所を磨いていく。
銀さんはバイトの初日、俺の絵を「色がないのに、アスファルトの匂いが漂う」と褒めてくれた。
陽菜は「不死鳥の絵から炎が立ち上る」と言ってくれる。
横丁の街並みや『ミライ・スコープ』を見たお客さんは、懐かしがったりしてくれた。
「だけど……」
俺の絵に、俺の塗装に本当にそこまでの力があるのだろうか。
俺の手の中にあるのは、所詮、うわべだけの技術で、たまたまそう見えるだけなんじゃないのか。
どうしても、自分で自分の作品を信じきることができない。
コンパウンドでツヤツヤに磨きあげた招き猫のお腹に映る、不安そうな俺の顔。
集中だ、集中。
首を振ってネル布にコンパウンド材を馴染ませて、台座にとりかかる。
「それにしても……」
しゃがみこんで曇った場所を磨いていく。
塩浜さんのスーツの質感を思い出しながら、あの人が言いかけたことは何だったのか考える。
「今のうちに挨拶しとこうか」と銀さんに促され、少し緊張しながら近づいた。
来賓の印である、花の飾りを胸につけた人たちと、グラス片手に談笑している塩浜さんは、近寄りがたい「ドン」というべきオーラを放っていた。
「し、塩浜先生……?」
俺たちに気づくと、ふと「ドンの顔」を崩して、いつもの絵画教室でみるおじいちゃんの表情になった。
「おお、鎌ケ谷さん。それに灯くん。
素晴らしい仕事ぶりだった。あなた方が頑張ってくれたおかげで、街に深みが出た」
「よしてくださいよ。
あの街は私らだけじゃなくて、みんなで作った街ですから……」
さすがの銀さんも、地元の有力者相手では、恐縮せざるを得ないようだ。
ニコニコ笑って銀さんの肩をたたくと、元県議会議員は、少し照れくさそうに俺に向き直った。
「おお、そういえば灯くん。
折り入って相談があるんだ。今度、教室に来たときにでも……」
「え? 僕に相談ですか?」
「そうなんだ……いや、実はね……」
塩浜さんが何かを言いかけたその時だった。
「おお、塩浜先生! こちらにいらしたんですか!」
モールの支店長が大きな声で割って入ってきた。
挨拶の順番待ちをしていた人たちが、どっと押し寄せる。
塩浜さんは「わかった、わかった」と苦笑いして、
「また今度、教室でな」
と俺に目配せをして、支店長に近づくと、瞬く間に挨拶待ちの人たちに囲まれていった。
結局、何を言おうとしたんだろう。
少し気になったけれど、後日教室で詳しく話を聞くことだし、と俺はその場を離れた。
ふと振り返ると、人波に揉まれる塩浜先生が、遠くを見つめているのに気づいた。
その視線の先には、典子先輩と田辺先輩がいた。
お互い寄り添って、何かを幸せそうに話し合っている。
その少し横では、陽菜が他のスタッフと明るく笑い合っていた。
彼女らの姿を見つめる塩浜さんの眼差しは、懐かしげだけど、寂しそうにも見えた。
いったい、あの時、塩浜さんは何を思っていたのだろうか。
「……おい、どうした?また手が止まってるぞ」
銀さんの声が、俺の思考を断ち切った。
「あ……」
「お、もう十分だな。顔が映るくらいピカピカじゃねぇか。
ま、こんなもんだろ。あとは業者が梱包するから、このままでいい」
銀さんは懐から業務連絡用のガラケーを取り出し、日立先生に完了報告を入れると、続けて大船さんに退出連絡をした。
手際の良いその動作が、すべての終わりを告げていた。
「よし、撤収だ。大船の姉ちゃんが出口で退出手続きするとさ」
銀さんが作業場の照明を落とす。
バチン、という音と共に闇が落ちる。
倉庫の薄暗い常夜灯に照らされ、ピカピカに磨き上げられた招き猫が、幻のように浮かび上がっていた。
「……綺麗になったな。これからは大学の守り神だな」
「……ええ」
でも、どこか寂しい。
そう思いながら、俺はドアを閉めた。
【担当:誉田灯(ペンキ屋の若親方役/塗装アルバイト)】
バチン、と照明が落ちる。
闇の中に浮かび上がったのは、皮肉なほど綺麗になった招き猫。
俺たちの「汚れ(エイジング)」は消えた。
だけど、指先に残るコンパウンドの熱と、溶剤の刺激臭は、 間違いなく俺の血肉になっている。
……さよなら、俺の作業着。
二度と着ることのないこのつなぎを脱いで、俺は「いつもの日常」へ戻るんだ。
次回、第79話『祭りのあとの溶剤と、穴熊毛の卒業証書』 銀さん。俺……あなたに、出会えたことが宝物です。




