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【完結】【情念の画家】地味な僕のフェロモンと筆ペンで、彼女たちの理性が限界突破する件  作者: 船橋ひろみ
第四章:黄昏の職人と、捏造された昭和

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第78話:安っぽい光沢、本物の重厚感

銀さんが脚立を降りてきた。

俺は慌てて拭き取りを終え、コンパウンド(研磨剤)のついたネル布に持ち替えた。


ここからは「磨き」の時間だ。


後ろを振り返ると、銀さんが塗料の一斗缶やエアブラシの器具をブルーシートの上に並べていた。


きっと、撤収のためだろう。


再び、無心で手を動かす。

コンパウンドで磨くたび、曇っていた表面から、徐々に光沢が現れる。

照明を反射して、テカテカと輝く樹脂の質感。


ピカピカの表面は、俺の顔が映るほど綺麗だ。

しかし、そこには何の深みもない。


「やっぱり……違う」


思わず独り言が漏れる。

昨日の会場で見た、塩浜さんのダークネイビーのスーツのことだ。


照明を浴びてもテカテカと安っぽく光らず、しっとりと光を吸い込むような、深みのある生地。

比べるものではないけど、同じように照明が当たっていても、招き猫と塩浜さんのスーツとはこうも光の質感が違うのか。


きっと、あれが「本物」の質感というものなのだ。


いくら俺たちが塗装で「時間」を演出しようとしても、あの滲み出るような重厚感までは作れない。

それは長年積み重ねてきたものだからこそ醸し出せるものだ。


やはり、嘘は嘘でしかないのだろうか。


キュキュッ。


ツヤツヤの表面が音を立てる。

もうこの場所はじゅうぶん磨けた。


ネル布にコンパウンド材を含ませて、横っ腹の曇った箇所を磨いていく。


銀さんはバイトの初日、俺の絵を「色がないのに、アスファルトの匂いが漂う」と褒めてくれた。


陽菜は「不死鳥の絵から炎が立ち上る」と言ってくれる。


横丁の街並みや『ミライ・スコープ』を見たお客さんは、懐かしがったりしてくれた。


「だけど……」


俺の絵に、俺の塗装に本当にそこまでの力があるのだろうか。

俺の手の中にあるのは、所詮、うわべだけの技術で、たまたまそう見えるだけなんじゃないのか。

どうしても、自分で自分の作品を信じきることができない。


コンパウンドでツヤツヤに磨きあげた招き猫のお腹に映る、不安そうな俺の顔。


集中だ、集中。


首を振ってネル布にコンパウンド材を馴染ませて、台座にとりかかる。


「それにしても……」


しゃがみこんで曇った場所を磨いていく。

塩浜さんのスーツの質感を思い出しながら、あの人が言いかけたことは何だったのか考える。


「今のうちに挨拶しとこうか」と銀さんに促され、少し緊張しながら近づいた。

来賓の印である、花の飾りを胸につけた人たちと、グラス片手に談笑している塩浜さんは、近寄りがたい「ドン」というべきオーラを放っていた。


「し、塩浜先生……?」


俺たちに気づくと、ふと「ドンの顔」を崩して、いつもの絵画教室でみるおじいちゃんの表情になった。


「おお、鎌ケ谷さん。それに灯くん。

素晴らしい仕事ぶりだった。あなた方が頑張ってくれたおかげで、街に深みが出た」


「よしてくださいよ。

あの街は私らだけじゃなくて、みんなで作った街ですから……」


さすがの銀さんも、地元の有力者相手では、恐縮せざるを得ないようだ。

ニコニコ笑って銀さんの肩をたたくと、元県議会議員は、少し照れくさそうに俺に向き直った。


「おお、そういえば灯くん。

折り入って相談があるんだ。今度、教室に来たときにでも……」


「え? 僕に相談ですか?」


「そうなんだ……いや、実はね……」


塩浜さんが何かを言いかけたその時だった。


「おお、塩浜先生! こちらにいらしたんですか!」


モールの支店長が大きな声で割って入ってきた。

挨拶の順番待ちをしていた人たちが、どっと押し寄せる。


塩浜さんは「わかった、わかった」と苦笑いして、


「また今度、教室でな」


と俺に目配せをして、支店長に近づくと、瞬く間に挨拶待ちの人たちに囲まれていった。


結局、何を言おうとしたんだろう。


少し気になったけれど、後日教室で詳しく話を聞くことだし、と俺はその場を離れた。

ふと振り返ると、人波に揉まれる塩浜先生が、遠くを見つめているのに気づいた。


その視線の先には、典子先輩と田辺先輩がいた。

お互い寄り添って、何かを幸せそうに話し合っている。


その少し横では、陽菜が他のスタッフと明るく笑い合っていた。


彼女らの姿を見つめる塩浜さんの眼差しは、懐かしげだけど、寂しそうにも見えた。

いったい、あの時、塩浜さんは何を思っていたのだろうか。


「……おい、どうした?また手が止まってるぞ」


銀さんの声が、俺の思考を断ち切った。


「あ……」


「お、もう十分だな。顔が映るくらいピカピカじゃねぇか。

ま、こんなもんだろ。あとは業者が梱包するから、このままでいい」


銀さんは懐から業務連絡用のガラケーを取り出し、日立先生に完了報告を入れると、続けて大船さんに退出連絡をした。


手際の良いその動作が、すべての終わりを告げていた。


「よし、撤収だ。大船の姉ちゃんが出口で退出手続きするとさ」


銀さんが作業場の照明を落とす。

バチン、という音と共に闇が落ちる。

倉庫の薄暗い常夜灯に照らされ、ピカピカに磨き上げられた招き猫が、幻のように浮かび上がっていた。


「……綺麗になったな。これからは大学の守り神だな」


「……ええ」


でも、どこか寂しい。

そう思いながら、俺はドアを閉めた。

【担当:誉田灯(ペンキ屋の若親方役/塗装アルバイト)】

バチン、と照明が落ちる。

闇の中に浮かび上がったのは、皮肉なほど綺麗になった招き猫。

俺たちの「汚れ(エイジング)」は消えた。

だけど、指先に残るコンパウンドの熱と、溶剤の刺激臭は、 間違いなく俺の血肉になっている。

……さよなら、俺の作業着。

二度と着ることのないこのつなぎを脱いで、俺は「いつもの日常」へ戻るんだ。

次回、第79話『祭りのあとの溶剤と、穴熊毛の卒業証書』 銀さん。俺……あなたに、出会えたことが宝物です。

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