第73話:街灯の下の告白、重なる唇
幼なじみが顔を近づけた意味を考えるよりも早く、柔らかく温かいものが、俺の唇をふさぐ。
ぎこちなく押し付けられた唇からは、彼女の必死な鼓動が伝わってくるようだ。
「んんんっ……んっ///」
幼なじみがビクビクっと身体を震わせ、両手で俺のシャツの胸元を力いっぱい握る。
時間が止まったかのような、数秒間。
重ねた唇から、陽菜の抱えていたものが、俺に伝わってくるような感覚があった。
典子先輩のような、まとわりつくような湿り気ではない。
つくばさんみたいに、惑わすような人工的な香りでもない。
ただただ、まっすぐで飾り気のない、日向のような温もりだけが、そこにあった。
ゆっくりと顔を離すと、陽菜は顔を真っ赤にして、潤んだ瞳で俺を見上げていた。
「……キス、しちゃった///」
はにかむように、けれど誇らしげにそう呟く幼なじみ。
その唇が、薄暗い街灯に照らされて、てらてらと光る。
名残惜しそうにゆっくり身体を離すと、陽菜は一歩、二歩と後ろに下がる。
「ともくん……上手く言えないけど……
好きよ、すごく……
じゃ、お家に帰るね」
俺に背を向けた彼女は、自宅に向かう。
そして、ドアの前で振り返り、陽だまりような笑顔を見せて帰って行った。
その姿を見送った俺には、首筋に残っていた湿った感触も、頬にこびりついていた口紅の感触も、すべてが溶けて落ちて、唇の感覚だけが残っていた。
翌日から、家と学校、作業場を回る日々が戻ってきた。
ああいう事があったけど、学校では陽菜や岩瀬さんたちとの距離は以前とはあまり変わらない。
陽菜は部活も続けながら、横丁で案内係をしているので忙しい。
ただし、夜には必ずと言って良いくらい、メッセージが来るようになって、仕事終わりの楽しみになっている。
そして、少しだけ変化があった。
学校では、相変わらずお互い必要以上のことは話さない。
だけど、校内ですれ違う時は、決まって俺の制服の裾を一瞬だけ、ポン、と弾いていく。
かと思えば、陽菜の近くに行くことがあると、彼女の鼻が小さく動く。
まるで空港とかで怪しいものをチェックする犬のようだ。
岩瀬さんとは、放課後の図書室や横丁のバックヤードで会うが、ニコリと笑って会釈をしてくれるようになった。
もう、無理やり俺を捕まえようという雰囲気は感じられない。
ただし、相変わらず……いやますます検索するような視線を送ってくるようになった。
「ふう……こんなもんかな」
招き猫の除幕式があったフォトスポットエリア。
はげかかっていた時計台に塗装を施し、塗料缶にフタをする。
グランドオープンからだいぶ日にちが経ったので、俺の仕事はセットや小道具のリペイント作業やメンテナンスが中心になっていた。
特に多いのは、バナナの設置台だ。
ハチさんのバナナの叩き売りはすっかり横丁の名物となり、今ではモールの青果コーナーにも紹介のポップが貼られている。
『でも、ライブのお客さんは増えないんだよね』と、何日かに一度のバナナ設置台のリペイント作業でハチさんにボヤかれるのが定番になってしまった。
ハチさんの他にも、タバコ屋さんやパン屋さんなど、グランドオープンから時間が経ったので、あちこちから依頼が来るし、巡回している大船さんたちモールのスタッフさんから指摘を受けたメンテナンスに対応することもある。
期間限定でいずれは倉庫に戻る横丁だが、現場の人でそんなことを気にする人はおらず、来場者のために『本気の嘘』をつき続けている。
だからこそ、あの招き猫の新品のような光沢に、俺は悔しさを感じるのであった。
ただ、これはあくまで高校生のバイトの感想でしかない。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、作業場に戻ると、銀さんは段ボールに道具を詰めていた。
「戻りました……
あれ、何をしているんです?」
「ああ?整理だ、整理。
もう少ししたら、横丁も倉庫に戻るからな。
今のうちに少しずつウチに道具を持って帰ろうかな、ってな」
ベテラン職人は、半開きの段ボールの側面にマジックで『塗料D』と書いた。
銀さんと仕事をするのもあと少し、という現実を突きつけられる。
俺の顔を見て、銀さんは困ったように言う。
「灯……そんなシケた顔するな。
俺にとっては、ここはあくまで現場の一つだ。
それ以上でもそれ以下でもねぇさ。
契約満了したら次の現場が待ってる……仕事だからな」
身体が一気に重くなった。
わかってはいたが、現実は変えられない。
あと何日かしたら、この横丁もグランドフィナーレを迎え、解体されるのだ。
「……ま、お前にいろいろ教えた手前、最後まで手を抜くつもりはねぇけどな」
立ち尽くす俺の肩をパン、とはたいて新しい段ボールを組み立てる。
俺は意を決した。
もしかしたら、もう銀さんの答えを聞けないかもしれない。
「あ……あの、僕、銀さんがどう思っているか、聞きたいことがあります」
ビビビ、とガムテープを引き伸ばした銀さんが、俺に向き直る。
目で催促されて、大きく息を吸った。
「ちょっと前にお披露目された、常陸野造形美大の皆さんが作った、招き猫についてです……」
俺は、陽菜と見たときの違和感、つまり、年代的な考慮がされた塗装がされていないこと、エイジングがされておらず新品みたいで横丁から浮いていること、そして、グランドオープンから一週間も遅れて納品されたことなど、一気に伝えた。
「……僕は、銀さんから仕事って何か、教わってきたつもりです。
他の横丁の皆さんから『本気の嘘』でお客さんを喜ばせていることもわかっているつもりです」
「……何が言いたい?」
俺はもう一度、大きく息を吸った。
「……あの招き猫は、横丁にふさわしくない、と思うんです……
今からでも、しっかりエイジングして……」
ビリッ。ガサリ。
段ボールの底にガムテープが貼られた。
「そうか……灯もそう思うか……」
「『灯も』って……だったら……」
ベテラン職人は、組み上がった段ボールを足元に置いた。
そして、腕組みしながら、天井にしつらえた排気ダクトを見上げる。
「いいか、坊主……
仕事が正しいかどうかはな、最終的に発注主が決めるもんだ」
【次回予告担当:鎌ヶ谷銀次郎(師匠/ベテラン職人)】
おう、灯。
ずいぶんシケた面して帰ってきやがったな。
あの招き猫が気に入らねぇって?
……そうかい。お前も、いっちょまえに「職人の目」を持つようになったか。
だがな、坊主。
仕事ってのは、正しさだけで出来てるんじゃねぇんだ。
俺がなんでお前を使わなかったか。
その理由、まだ分からねぇか?
次回、第72話『銀色の背中、あるいは最後のレッスン』
親心は、語らずして伝わる。




