髪を結ぶ
退院してから数日が過ぎた。立川の寮に戻ってきた小早の姿を隣で見守っているけれど、その日常は以前とはあまりにもかけ離れている。
かつては短く整えられていた彼女の髪は、3ヶ月に及ぶ長い入院生活の間に、肩にかかるほどまで伸びていた。 鏡の前で、彼女はその邪魔そうに揺れる毛先をまとめようと、ゆっくりと両腕を上げた。
「……っ、ん……」
小早の口から、押し殺したような小さな呻きが漏れる。
彼女の左肩には、あの襲撃で深く抉られた刺創の痕が、醜く引きつれるように残っている。 腕を頭の後ろまで回そうとするたびに、癒着した組織が内側から無理やり引っ張られ、鋭い痛みが彼女の表情を歪ませていた。
追い打ちをかけるように、右手の自由も利かない。腱の再建手術は終えたものの、神経の伝達が遅いその指先は、髪を一房掴むことさえ覚束ない。 麻痺と痺れに支配された指の間から、さらさらと髪が零れ落ち、ヘアゴムが力なく床に転がった。
「……私、本当に……不器用になっちゃったな」
自嘲気味に呟いた「不器用」という言葉。
その瞳に宿る絶望があまりにも痛々しくて、俺は居ても立ってもいられず、彼女の背後に歩み寄った。
「……貸してみろ。俺がやってやる」
「えっ? ……でも、関。慣れてないでしょ?」
「いいから。……座ってろ」
俺はベッドの縁に座る小早の真後ろに腰を下ろした。
間近で見る彼女のうなじは、驚くほど白く、そして細い。3ヶ月の間に落ちてしまった筋力のせいで、その身体は今にも折れてしまいそうなほど華奢に見えた。
俺の大きな、武器を握るためだけの無骨な手が、彼女の柔らかな髪に触れる。
指先に伝わる髪の感触は驚くほど繊細で、力を込めすぎれば壊してしまいそうで怖くなる。俺は慎重に、まるで極秘任務を遂行するかのような緊張感で、伸びた髪をひとつにまとめ上げた。
「……痛くないか?」
「うん……。ちょっと、くすぐったいかも。……ふふ」
小早が小さく、本当に小さく笑う。
その微かな笑い声を聞いた瞬間、俺の胸の奥に溜まっていた重苦さが、少しだけ洗われるような気がした。
慣れない手つきで格闘しながら、どうにかヘアゴムを三重に巻き付ける。
お世辞にも綺麗とは言えないけれど、彼女の視界を塞いでいた邪魔な髪は、俺の手によってひとまとめに結ばれた。
「……できたぞ」
「ありがとう。……関が守ってくれてるみたいで……安心する」
小早は不自由な右手を添えて、俺が結んだ場所を愛おしそうに確かめる。 傷跡が引っ張られる痛みも、指先の痺れも消えたわけではない。それでも、彼女の横顔には、今日を生き抜こうとする小さな光が灯っていた。
「小早。……腕が動かないなら、何度だって俺が結んでやる。肺が苦しいなら、俺がお前の分まで息を吸ってやる。……だから、いつでも呼んでくれ」
俺は後ろから彼女の肩をそっと引き寄せ、その細い背中に額を預けた。
失われた時間は戻らないし、刻まれた傷跡が消えることもない。それでも、この不器用な結び目が解けないように、俺は何年だって、お前の隣でその弱さを支え続けると心に誓っていた。




