桜木教官の時間
退院してから数日。ようやく自分の足で少しずつ歩けるようになったものの、私の身体はまだ自分のものではないように重く、言うことを聞いてくれない。
一歩踏み出すたびに腹部の刺し傷が引きつるように痛み、肺挫傷の影響で受傷前の60%まで落ち込んだ肺活量は、廊下を歩くだけで私から余裕を奪っていく。
さらに、あの時、咄嗟に刃を握りしめた右手は、腱の再建手術こそ成功したけれど、神経の伝達が遅く、自分の意思とは裏腹に常にピリピリとした痺れと麻痺に支配されていた。
「……失礼します」
小さなノックの後、私は桜木教官の部屋の扉をそっと開けた。
リハビリの進め方について相談したいと思っていたけれど、部屋の中に広がるのはいつもの芳醇なコーヒーの香りではなく、どこか張り詰めたような静寂だった。
「教官……?」
声をかけたけれど、返事はない。
デスクに向かったまま、桜木教官は椅子に深く身体を預け、眠りに落ちていた。
モニターには、軍の最新のリハビリテーション医学の資料や、末梢神経障害からの回復事例、そして肺活量を戻すための呼吸理学療法の計画書がびっしりと表示されている。
その横には、私の容態を細かく書き留めたと思われる手書きのノートが置かれていた。
……私のリハビリのために、こんなに調べてくれていたんだ……
胸の奥が温かくなると同時に、申し訳なさでいっぱいになる。
教官自身、中山教官の意識がない間は膨大な事務処理やパトロール、そして私たちのケアに奔走していたはずだ。
「何年でも待つ」「一緒に進もう」と言ってくれたあの言葉は、単なる気休めではなく、こうして削り取られた教官の睡眠時間の上に成り立っているのだと痛いほどに理解した。
ふと、教官の寝顔に目を向ける。
眉間に深く皺が寄り、苦しげに呼吸が乱れている。その唇が、かすかに震えながら何かを呟いているようだった。
「……すまない……っ、中山……、あいつらを……」
それは、かつて教官たちが経験したあの凄惨な過去の夢なのだろうか。
たった二人だけが生き残り、「生き残りだ」と蔑まれながら歩んできた茨の道。
それとも安宅くんや関内くんたちを守れなかった立川士官学校襲撃事件の記憶だろうか。教官の時計も、本当は止まったままなのかもしれない。
教官、ごめんなさい……。私が、もっと強ければ……
左肩の刺創による癒着で、動かすたびに鋭い痛みが走る腕をそっとさする。
今のあたしは、かつてのびのびと空を舞っていた面影もないほど、脆くて壊れそうな「出来損ない」のままだ。
それでも、教官はこの動かない右手も、うまく息が吸えない肺も、すべてを「お前の弱さ」として受け入れて一緒に歩むと決めてくれた。
私は教官を起こさないように、デスクに置いてあったブランケットをそっとその肩にかけ直した。
この人が作ってくれた「戻るべき場所」を、今度はあたしが命懸けで守り抜かなければならない。
「教官……ありがとうございます。私絶対に戻りますから」
眠る教官の耳元で、血の混じらない、確かな誓いを小声で残す。
現実はまだ痛くて苦しいけれど、私はもう、一人で暗闇の中へ歩いていったりはしない。
安宅くんたちの遺した想いと、今目の前で私のために傷ついている教官たちの熱を抱いて、私は再び空を取り戻すための地道な戦いへと、一歩を踏み出した。




