番外編:教官がまだ教官では無かった頃⑨
意識の底は、まだ深く、暗い。
どれほど抗おうとしても、俺の身体は鉛のように重く、無数の管に繋がれたまま石のように固まって動かない。
だが、わずかに指先の感覚が戻り、喉の奥に溜まった泥を吐き出すように、ようやく言葉の端くれを掴み取ることができた。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、視界の端に、やつれ果てた桜木の姿が映った。
「……来る、な……」
やっとの思いで絞り出したのは、あいつを突き放すための拒絶だった。
その瞬間、桜木の顔が歪んだ。
今まで何度も死地を共にしてきたが、あんな泣きそうな、今にも崩れ落ちそうな相棒の顔を見たのは、後にも先にも初めてだった。
違うんだ、桜木……。泣くな……。お前に、そんな顔をさせるつもりじゃないんだ…
言いたいことは山ほどある。
お前は「使い手(神力使い)」をやめたいなんて言っていたな。俺が生き残ってしまったせいだ、なんて。
馬鹿なことを言うな。お前は空を飛ぶべき男だ。だから、もうこんな死の匂いのする病室に来るな。立川の訓練場に戻って、またあの綺麗な翼を研ぎ澄ませてくれ。
俺なら大丈夫だ。すぐにお前の隣に戻るから。だから、待っていろ――。
伝えたい言葉は、熱を帯びた吐息と共に霧散していく。 強烈な眠気が容赦なく押し寄せ、意識を現実から引き剥そうとする。
もっと、あいつと話したいのに。
「桜木……」と名を呼ぶのが精一杯で、俺の意識は再び暗い底へと沈んでいった。
次に目が覚めたのは、いつのことだろうか。
薄暗い部屋の中で、家族が桜木と小声で話しているのが聞こえた。
「さっき、一瞬だけ目を覚ましました。」
「少しずつ、良くなっているみたいですね。」
その声を遠くに聞きながら、俺はまた深い微睡へと落ちていった。
それから、あの毎日響いていた桜木の声が聞こえることはなくなった。
静まり返った病室で、俺は天井を見つめる。
あいつに、言い過ぎたかもしれない。傷つけてしまったかもしれない。
それでも、俺はあいつに、俺という「過去」に縛られてほしくなかった。
俺の横で椅子に座り続けるのではなく、あの公園の小僧を鍛え、訓練に明け暮れ、俺が戻るべき「空」を守っていてほしかった。
戻るからな、桜木。それまで、お前は最強の使い手でいてくれ……。
不甲斐ない身体を呪いながら、俺は相棒が再び翼を広げることを信じて、静かに呼吸を繰り返した。




